“駅中(エキナカ)”の城 (Vol.19)

城の遺構があるエリアと鉄道の駅があるエリアは通常離れている。しかし、世の中には“エキナカ”の城も存在する。「三原城」、日本で一番駅に近い城である

1.城と鉄道(駅)との位置関係

長かった城の時代が終わると、明治維新となり、近代化が進められていく過程の中で全国各所に鉄道網が整備されていく。このような経過を辿ったためであろうか、熊本松江金沢松本会津若松弘前等々、昔ながらの城下町の風情が残る都市を見ていくと、駅があるエリアと城の遺構が残るエリアとでは通常一定の距離が置かれている。城下町の中心部には頑として線路は通さない、そんな強い意思が感じられる街づくりである。

ただ、戦後経済復興の象徴として開発が進められた東海道・山陽新幹線に時代になると、少し様相が変わってくるのかもしれない。新幹線の駅が通れば経済が潤う、便利になる。是非ともおらが街に新幹線を! どこに新幹線を通すか、どの場所に駅を造るかで、恐らく虚々実々の政治的駆け引きが繰り広げられたことであろう。

 

2.“駅中(エキナカ)”の城「三原城」

山陽新幹線「三原駅」。新幹線で広島駅からは25分、岡山駅からは43分の位置にあるこの新幹線の駅が、どのよう経緯で造られたのかはもちろん知る由もないが(苦笑)、「三原城」はこの「三原駅」に直結している。いや、感覚的には駅の中に城があるという感じである。まさに“駅中(エキナカ)”の城。日本で一番駅に近い城と言ってよいであろう

「三原城」は、1567(永禄10)年、毛利元就の三男、小早川隆景によって築城された。瀬戸内海に浮かぶ大島・小島を繋いで築城が行われたと伝えられており、満潮時には海に浮かんでいるように見えることから、「浮城(うきじろ)」と呼ばれた。以下の「備後国三原城絵図」の写真を見れば、「浮城」と呼ばれる理由がよくわかるであろう。小早川隆景は毛利水軍の指揮官であったが、この「三原城」を毛利水軍の軍港とすることによって、瀬戸内の要所を抑えていたものと考えられる。

城内には今も立派な「天守台」が残されている。「三原城」は、往時には櫓32、城門14を有し、広島城であれば6つの天守が建つほどの、壮大な規模を持つ「天守台」であったが、結局、明治に至るまで天守が造られることはなかった。

 

3.“駅中(エキナカ)”の理由

なぜ「三原城」は“駅中(エキナカ)”の城になったのであろうか。1873(明治6)年、「三原城」は海軍省の管轄となった後、「三原城」本丸跡をちょうど東西に貫通するようにして山陽鉄道が敷設されることになり、1894(明治27)年に「三原駅」が開業した。これによって城跡の大半が破壊されることになったわけである。

そして、1975(昭和50)年の山陽新幹線の開業である。高架になった新幹線の「三原駅」と山陽本線の「三原駅」が天守台に隣接して建設された。それ以降、駅構内からでないと天守台には行けなくなった“駅中(エキナカ)”の城、誕生の理由である。

“駅中(エキナカ)”の城には“エキナカ”なりの魅力がある。駅舎の窓越しに「三原城」のモニュメントや「天守台」をすぐに見つけることができる。駅から外に出て付近を散策してみると、新幹線と「三原城」がどれだけ近接しているかを実感することができる。ある意味で大変稀少価値のある城と言えるのかもしれない。「三原駅」で途中下車して、“駅中(エキナカ)”の城を是非堪能してほしい。

写真右上に見えるのが新幹線の線路、石垣との近さがよくわかる

三原駅から乗車した新幹線は偶然にも「ハローキティ新幹線」だった。「ドクターイエロー」との遭遇(Vol.1)など、旅ならではの嬉しいハプニングである。

 

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