風水害との戦い その2 ~松山城編~(Vol.28)

2024(令和6)年7月12日未明、「松山城」の東斜面で大規模な土砂崩れがあり、3名の方がお亡くなりになられるという、大変痛ましい災害事故が発生しました。今日、文化財を保護することと自然災害への対応(備え)を迅速に行うことは、果たして両立し得るものなのかどうか。今回の土砂災害は、私たちに対しそんな疑問を投げかけています。

1.松山城の魅力

一番好きな城はどこですか。筆者の場合は迷いなく「松山城」と答える(「城好きのためのブログ」参照)。①現存天守の中でも大変貴重な「連立式天守」であること。②石垣(「登り石垣」、「屏風折れ」等)、門(「隠門」、「戸無門」等)、櫓。どれを取ってみても建造物としてのクォリティが極めて高いこと。③攻撃側を簡単には寄せつけない、数々のトラップが巧妙に仕掛けてあること。④標高132メートルの勝山山頂にある城は、昔も今も松山市のランドマークであること。⑤松山市には温泉があり、食文化も豊かであること。大好きな理由はいくらでも挙げられる(笑)。

松山や 秋より高く 天守閣。城の天守が、秋の空よりも高くそびえ立つ壮大な情景を読んだ、俳人正岡子規の有名な句である。晩年を病床で過ごした子規は、故郷松山について「故郷ほど恋しいものはない。故郷に近づくと、最初に天守が迎えてくれるのが嬉しい」と、その想いを綴っている。やはり、「松山城」は昔も今も市民にとって変わらないラウンドマークなのである。

 

2.土砂崩れの発生

2024(令和6)年7月12日未明、その「松山城」で惨事が起きた。城のある山の東斜面で大規模な土砂崩れが発生、幅50メートル、長さ300メートルにわたって土砂や木々が流れ落ち、麓の民家やマンションを直撃した。土砂に押しつぶされた木造住宅に住んでいた90代と80台のご両親、そしてその介護をしていた40代の息子さんの3名がお亡くなりになるという、大変痛ましい土砂災害となった。

日本経済新聞ニュース2024(令和6)年7月12日から引用

この災害発生を受けて、松山市では直ちに市道上の土砂の撤去を開始、全壊家屋の解体撤去、斜面上部の浸食防止対策などの「応急復旧工事」を行うとともに、土砂崩れで被災した方々ができるだけ早く元の生活に戻れるよう、生活再建金の給付などを行った。令和7(2025)年4月21日からは、「本復旧工事」も開始されている。「松山城」自体も、土砂崩れ発生後は関連施設を含めた調査、点検作業を行うため、令和6(2024)年7月30日までの間、その営業ないし登山道の通行を休止する措置を講じた。

 

3.災害発生の原因

なぜ今回の土砂災害が発生したのであろうか。その原因を考えるうえで注目せざるを得ないのは、土砂崩れ直前の令和6(2024)年7月から、松山市が「松山城」の城山の上部にある「緊急車両道路」の擁壁工事を開始していた、という事実である。話はさらにその1年前に遡る。令和5(2023)年7月は、梅雨前線の停滞によって、全国各地で記録的な大雨が降った時期である。各所において土砂災害、河川の氾濫・決壊、大規模な浸水被害などが発生した。この時の梅雨の大雨によって、「松山城」でも「緊急車両道路」の擁壁の傾きが確認された。その傾きは次第にひどくなり、地面に亀裂が入るようになったため、市としても応急措置の工事をせざるを得ない状況になった、というわけである。

「緊急車両道路」は、平成27(2015)年に市によって整備されたものである。「緊急車両道路」の擁壁工事は今回の土砂崩れの何らかの原因になっているのではないかそもそももっと早く擁壁工事を終えることはできなかったのか。素人考えとしては、ついそんな疑問を感じてしまう経過である。

本件については、発生メカニズムを解明するための「技術検討委員会」が設置され、既に報告書がまとめられている。これによれば、大きなプロセスとして、①「斜面変形」(クリープ的変形)、②「土砂流出」(斜面崩壊)、③「土砂流下」の過程を経て発生したと推定。その上で、松山市が整備した「緊急車両用道路」については、7月12日当日の土砂流出には「起点となるような直接の影響を与えた可能性は低い」としながらも、計算などの結果から「斜面変形に影響を与えた可能性があるとしている。工事そのものと土砂崩れとの間の因果関係の有無については、報告書の中でも明確に結論が出されているわけではない。

 

4.文化財としての保護を受けるためには

令和5(2023)年7月の大雨によって「緊急車両道路」の擁壁の傾きが確認されてから、実際に工事が始まるまでには葯1年かかっている。なぜ、そこまで時間がかかったのであろうか。その理由は、「松山城」が国の史跡、文化財であるため、その工事を行うにあたっては(たとえ「天守」などの建造物以外であっても)「文化庁」の許可が必要となり、様々な法的手続きを踏まなければならなかったからである。

①令和5(2023)年9月に松山市議会で「緊急車両道」復旧工事の補正予算案が可決⇒②同年11月は工事に向けた発掘調査を「文化庁」に申請⇒③同年12月中旬に文化庁から現状変更(発掘調査)の許可を得て、同月22日に松山市が受領⇒④令和6(2024)年1月下旬、工事箇所に埋蔵文化財がないか発掘調査を実施⇒⑤同年2月に調査結果を松山市の審議会に報告⇒⑥同年4月に文化庁へ工事申請⇒⑦およそ1か月後の同年5月17日に文化庁内で工事の許可が出て、同月22日に松山市が受領。以上がざっくりとした時間的経過になる。

ここまでの法的手続きを踏まなければいけないのか。筆者も初めて認識した次第である。文化庁の担当者によれば、「許可が出る期間も手続きも他の文化財の事例と同様で、通常のプロセス」だったとのこと。松山市も文化庁も、双方ともに一つひとつの手続きを踏みながら粛々と進めた結果、工事着工までに1年がかかったというのが今回のてん末である

文化財保護法第125条1項は、「史跡名勝天然記念物に関しその現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為をしようとするときは、文化庁長官の許可を受けなければならない。ただし、現状変更については維持の措置又は非常災害のために必要な応急措置を執る場合、保存に影響を及ぼす行為については影響の軽微である場合は、この限りでない。」と定めている。記録的豪雨や長雨、大型台風など、これまでの常識が通用しなくなってきている「異常気象」に対応していくためには、この規定の但し書部分、「維持の措置又は非常災害のために必要な応急措置を執る場合」を今後さらに柔軟に適用・運用することが必要であると考える。今回の「松山城」の土砂崩れ事故を契機として、将来の大雨や地震に備えるための(応急措置的)工事事例が、全国各地で集積されていくこと(スタンダードになること)を大いに期待したい。

尊い人命を守り、後世に残す貴重な文化財を保護していくために、法制度を運用する側の相応のリテラシーが求められている。

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