火災との戦い その2(Vol.17)

令和元年10月31日未明の火災によって、「沖縄のアイデンティティー」である首里城が焼失した。私たちが失ったものはあまりにも大きい。しかし、火災の原因調査を踏まえ、再建に向けた動きが着実に始まっている。

1.「沖縄のアイデンティティー」の喪失

「火災との戦い その1」(Vol.10)では、江戸時代の「明暦の大火」が江戸城下を焼き尽くしたことをコラムにしたが、今回は令和の火災である。2019年(令和元年)10月31日未明に発生した火災によって、「沖縄のシンボル」「沖縄の魂」「沖縄のアイデンティティー」と称される首里城が焼失した。その喪失のダメージはあまりにも大きく、計り知れない。

*朝日新聞デジタルから引用

正殿内部から発生した火災により、火は約11時間にわたって燃え続けた。総務省消防庁によると、全焼・ほぼ全焼が正殿、北殿、南殿・番所、書院・鎖之間、黄金御殿池(寄満・奥書院)、二階御殿の6棟、半焼が奉神門、一部焼損が女官居室。延べ4,800㎡が焼失した。2021年(令和3年)5月29日日本経済新聞電子版によれば、この火災によって建物や美術工芸品の損害額は約84憶4,000万円、建物を所有する沖縄総合事務局と首里城を管轄する一般社団法人「沖縄美ら海財団」に対して、契約の上限となる70億円の損害保険金があいおいニッセイ同和損保社によって支払われたとのこと。文化財である建築物焼失による損害保険金の支払額が、そもそもニュースになること自体が珍しい。

 

2.首里城火災の歴史

今回の火災を含め、首里城は5回の焼失を経験したことになる。1453年、王位をめぐる争いから首里城は全焼。その後、尚真王の時代には城の北側に城郭が築かれ、歓会門と久慶門が建造、正殿には石高欄と大龍柱が設置された。次の尚清王の時代には城の南側に城郭が築かれ、継世門が設けられた。しかしながら、1660年の失火により再び全焼。1671年に再建されたが、1706年、正殿をはじめ北殿、南殿などを焼失。薩摩から木材を入手して、1712年に再建された。1879年(明治12年)の「琉球処分」(注1)後も、正殿は文化財として保護されてきたが、④太平洋戦争下では、旧日本陸軍が首里城地下に陣地を構えたため、米軍の攻撃目標となり、建築物や城壁、さらには周辺の文化財建造物も破壊され、首里の歴史的町並みはほとんど失われてしまった。そして、今回の令和元年の火災焼失である。

(注1)1879年(明治12年)、明治政府の手で行われた沖縄の廃藩置県のこと。これにより琉球王国は崩壊し、沖縄県が設置された。近世の琉球王国は、第一に薩摩藩を直接の管理者としつつ幕藩体制の一環に編成され、第二に中国(清国)との間で伝統的な外交・貿易関係を持ち、国王は皇帝の冊封(さくほう)を受け、定期的に皇帝に進貢(朝貢)を行い、そして第三に独自の王国体制をもって領内を直接的に経営するという、三つの異なる顔を持っていたことになる。

 

3.火災の原因調査

首里城火災の原因については、沖縄県警、那覇市消防局によって綿密な調査が行われている。火元は、電気系統設備が集中していた正殿北東側と見られている。現場で採取した銅線などを検査機関で鑑定したものの、有力な物証は得られないまま。県警は正殿正面の監視カメラ画像を確認したが、放火などの人為的原因は見つけられなかった。長時間にわたり火災が続いたことによって、正殿北東側が完全に燃え尽きてしまったことが影響し、原因を特定するまでには至らなかった。

結局のところ、放火などの事件性はなく、刑事責任を問う証拠もないことで、県警は捜査を終了、当時首里城を管理していた一般社団法人「沖縄美ら海財団」の管理責任、法律上の損害賠償責任が問われることはなかった(注2)

二度とこのような悲劇を繰り返さないよう、防災の専⾨家、弁護⼠らによって編成された「⾸⾥城⽕災に係る再発防⽌検討委員会」が、2021年(令和3年)3月に⾸⾥城⽕災に関する再発防⽌策等報告書(以下『報告書』という。)を公表している。この『報告書』を通読することによって、今回の首里城火災の特性(真因)が浮かび上がってくる。

(注2)有志8人による「首里城火災の管理責任を問う沖縄県民の会」(県民の会)は、正殿などが全焼したのは、県から施設の運営を委託されていた指定管理者「沖縄美ら島財団」の責任だとして、「損害賠償金1億9,730万円及びこれに対する令和元年10月31日から支払い済まで年5分の割合による金員の支払い」を財団に請求する訴えを那覇地裁に提起している。

 

4.首里城火災の真因

太平洋戦争後の首里城の復元は、1986年(昭和61年)に国営公園として復元整備されることが閣議決定されたことに始まる。本土復帰20周年にあたる1992年(平成4年)11月3日には、正殿、瑞泉門などの復元完成によって、一部開園された。この“平成の復元”は、「首里城の復元なくして沖縄の戦後は終わらない」という県民の強い思いを背景にして、正殿をはじめとする様々な重要施設を、時代考証に基づき可能な限り正確に復元整備するという方針で行われた。実際の施工段階では、漆の塗師、石工、宮大工、陶工、造園工等々、非常に広範囲にわたる職種の方々が多数参加をし、復元過程で生じる様々な問題を相互に調整しながら一つひとつ地道に解決していくという、まさに“スクラムの賜物”である。

『報告書』は、首里城正殿には「スプリンクラー設備等の⾃動消⽕設備は消防法上、建築物の⽤途・規模から義務付けられておらず、設置されていなかった」こと(法令上は特段の問題がないこと)を指摘している。そのうえで、消防水利については、「公設消⽕栓(⽔道配⽔管の埋設されている公道上に設けられる消防活動⽤の消⽕栓)は城郭内には存在しないため、⾸⾥城公園周辺の公設消⽕栓にポンプ⾞が部署し、放⽔先までホースを延⻑する必要がある。⾃然⽔利に活⽤可能な円鑑池、⿓潭池があるが、⾼低差や⽔質等の問題があることや、⽔利部署位置までの道路が狭隘であり、部署可能な⾞両が限られるため、公設消⽕栓と⽐べると活⽤に時間を要する」という問題点を指摘している(『報告書』37ページ)。

また、正殿の建築物としての防耐火性能については、「 正殿は⽊造3階建ての建築物であり、国内の城の現存する天守や櫓等とは異なり、防⽕効果のある⼟壁や漆喰塗り仕上げが採⽤されておらず、構造体だけでなく、外壁、軒裏、内部の床・壁・天井も⽊材であるため、⼀旦出⽕すると短時間で急激な延焼拡⼤に⾄る可能性があるまた、天井⾼が⽐較的低く、かつ天井仕上げが⽊材である部屋も存在するため、そのような部屋で出⽕した場合、すぐに天井に着⽕して⽕が燃え広がりやすく、防⽕区画のない階段を通って上階へ急速に延焼拡⼤するおそれがある」ことを冷静に指摘している(『報告書』30ページ)

さらに『報告書』は、防災設備の維持管理状況等については「正殿内の分電盤には複数のブレーカーがあり、電気を分配していた。ブレーカーの⼀部を閉館後に⾃動的に落とす運⽤となっていたが、24 時間通電しているブレーカーに閉館中は必要のない機器が接続しており、閉館中の通電の要否を踏まえた運⽤が不⼗分であった。⾃主点検をするための点検班は電気設備についても毎⽇適正な機能を維持するために点検を⾏うことになっていたが、正殿内の LED 照明器具のコンセントの抜き差しのルールが不明確であった。スイッチを切っていてもコンセントを抜かない限り通電はされているため、機器の異常や転倒などによる出⽕の可能性がある」こと(『報告書』53ページ)、消防訓練の実施状況については、「沖縄美ら島財団主催の⽕災総合・基礎訓練においていずれも午前 10 時出⽕を想定しており、直近の 2か年間で夜間⽕災を想定した防災訓練は⼀度も⾏われていなかった。訓練に参加した夜 間担当者の⼈数は、警備員・監視員合計 18 名中、いずれの回も3名と少⼈数であり、かつ、⾸⾥城⽕災当⽇に夜間警備の任務にあたっていた警備員は総合訓練への参加経験はなかった」こと(『報告書』56ページ)を、それぞれ指摘している。

 

5.令和の復元計画

2020年(令和2年)3月27日、「首里城復元のための関係閣僚会議」によって正殿等の復元に向けた工程表がリリースされた。前記4の『報告書』では、木造で再建された建築物の防耐火性能、防災設備の管理状況、消火体制などについて様々な問題点が指摘されているが、今回の工程表では、これを解消するための各種手当てが盛り込まれている。第一に、正殿を木造で再建するにあたって、最先端の自動火災報知設備等火災の早期発見のための設備やスプリンクラーの設置など迅速な初期消火のための設備を導入することにした。第二に、首里城が城郭に囲まれた特殊な地形に存在していることを踏まえ、消防隊が迅速に消化活動を行うことができるよう、消火用の水を城郭内に送るための連結送水管設備を導入し、貯水槽の増設、消火栓の新設を検討することにしている

2022年度から本格的な復元工事がスタートした。見学デッキが完成し、復元工程について壁面グラフィックや解説版が掲示され、「見せる復興」が展開されている。筆者は、2022年(令和4年)12月10日に首里城を訪れた。正殿再建に向け、木材の確保が着実に進んでいる様子、火災に耐えた大龍柱、首里城防火対策に関する考え方などを間近に見ることができた。正殿が再建されるのは2026年(令和8年)の予定。「沖縄のシンボル」が復活した姿をなんとしてもこの目で見届けたい、そう決意を新たにした。

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