福島正則は、数多(あまた)の戦国武将の中でも特に“強者(つわもの)”として有名です。彼の終焉の地は、意外にも長野県上高井郡高山村であったことをご存知でしょうか。今回、その地を訪ねてみました。
1.栄華を極める
福島正則の生まれは尾張国海東郡(現:愛知県あま市)である。豊臣秀吉のいとこであったことから、少年の頃から秀吉の小姓として仕えた。福島正則の名を世にとどろかせたのが、天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦い(豊臣秀吉 vs 柴田勝家)であろう。一番槍・一番首の手柄を挙げたことから、「賤ヶ岳の七本槍」の筆頭に数えられている。常に戦いの最前線に身を置く武将である正則は、秀吉の天下統一にとっても欠かせない存在であったと言えるが、慶長3(1598)年、秀吉が亡くなると、風向きが大きく変わっていく。
彼が昵懇(じっこん)にした相手は、よりによって徳川家康なのである。自分の息子(正之)を家康の養女(満点姫)と結婚させ、姻戚関係になった。慶長5(1600)年の上杉(会津)征伐の際のいわゆる「小山(おやま)評定」では、正則がいち早く家康の味方につくことを大勢の武将の前で誓約したことによって、東軍は一転して西に向かって進撃することになり、あの「関ヶ原の戦い」に至った。秀吉から「豊臣秀頼のことをくれぐれも頼む」と言われていたにもかかわらず、なぜ正則はことごとくそれに反するような行動を取ったのであろうか。
恐らく、それは小説やドラマの世界で描かれているように、正則が石田三成のことを徹頭徹尾嫌っていたからであろう。「光成憎し」の感情が常に先立き、どうしても光成とは手を組むことができなかった。もし正則と光成ががっちりとスクラムを組み、そこに加藤清正や池田輝政、浅野長政などの秀吉恩顧の大名たちが加わった「反家康連合軍」が結集できていたとしたなら…。素人は、ついそんなことを妄想してしまう。もっとも、文字どおり“百戦錬磨”、“手練手管(てれんてくだ)”の家康が、そんな隙(スキ)を見せることは決してなかったと考えるべきであろうか。
関ヶ原の戦いの後、正則はその功績が認められ、安芸広島と備後鞆(とも)49万8,000石の大名となった。その居城となった広島城はいわずと知れた「日本100名城」である。旧毛利家の所領がそのまま与えられたという点において、家康も正則に対しては相当気を遣っていたものと考えられる。正則、まさに人生の栄華を極めた瞬間である。
2.城の修繕をしたことでリストラの憂き目に
安芸の国に入った正則は、直ちに検地を行い、石高の再算出を行って年貢徴収の見直しを行うとともに、城下町の整備、寺社の保護や商業の発展に努めるなど、領内では善政を敷いたそうである。単に“武力一辺倒”の人物ではなく、為政者としても非凡なセンスを持っていたことになる。ところが、元和5(1619)年、台風による水害で破壊された広島城の本丸・二の丸・三の丸および石垣等を正則が幕府に無断で修繕したことが、武家諸法度違反に問われる。正則側の言い分としては、雨漏りする部分だけをやむを得ず修繕しただけとのこと。一旦は修繕した部分を破却することを条件として許されたものの、「破却が不十分である」と再度咎められ、結局、安芸・備後の所領は全て没収。信濃国川中島四群中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封され、配流(はいる)の身となった。正則は、壮絶、過激なリストラの憂き目にあったことになる。
高井野藩の藩庁は、現在の長野県上高井郡高山村に置かれ、「福島正則屋敷跡」として長野県史跡に指定されている。寛永元(1624)年、わずか5年の高井野での生活の後、正則は64歳の生涯を閉じた。
3.「高井寺」を訪ねる
「福島正則屋敷跡」には、現在、浄土真宗本願寺派の「高井寺(こうせいじ)」がある。現在の館跡に寺が建立されたのは天明5(1785)年頃だそうで、今回、その場所を訪ねてみた。お参りを済ませ、帰ろうとすると、畑仕事をされていた女性の方が「是非本堂の中に入ってください」と、声をかけてくださった。聞くと、ご住職が外出中のため、奥様が代わりにガイド役を務めてくださるとのこと。予期していなかったありがたい申し出、お言葉に甘えさせていただいた。本堂の中で、ひときわ目を引くのが、福島正則公の掛軸である。作者不詳とのことであるが、大変貴重な資料なので写真を撮らせていただく。併せて、正則公のミニ年譜、ご住職(小野沢 憲雄氏)が書かれたエッセイのコピーなどをいただいた。奥様は、「いつの時代でもねぇ、リストラされちゃ大変だわ~」と、何度も口にされていた。
この館での正則公の生活はまさに“生ける屍”同然であったと言う人がいるが、決してそんなことはない。幾多の戦場で修羅場をくぐり、世の無常、悲哀を知り尽くした情念の人。晩年の正則公の心は澄み切っていた。ご住職はエッセイの中でそう書かれている。栄華を極めた後、一転奈落の底へ。福島正則の人生はまさに波乱万丈であったと言えるが、最後は信州の自然、山河そして信州人の優しさ、温かさに心を癒され、穏やかに逝かれたに違いない。高山村へ実際に足を運んでみて、そんなことを強く感じた。
石垣は、往時のものではなく、後日積まれたものである
番外編。高井寺の真向かいにある和菓子店「おおたや」さん。桜餅をおまけしていただいた
👉Vol.26 「福島正則の最後 その2」