このコラムでは、城における「天守」が持つ魅力を解説しています。「天守」の種類は色々。鉄筋コンクリート造の「天守」は今大きな転機を迎えています。
1.城が好きな理由
「好きな城はどこですか?」。城好きの人たちが集まると、ごく自然にそういう話題になる。「〇〇城が好き」、「へぇ~、どういう所がお気に入りなの?」。一気にマニアたちのトークに花が咲く。
天守や石垣、櫓、門といった各種建築物についてうんちくを語るマニア。人工的に手を加えた堀や土塁、切岸*1といった造成に詳しい山城マニア。ここの城は縄張(城全体のグランドデザイン)が一味違うんだよと言って、目を輝かせる縄張マニア。武将マニアの場合には、誰が作った城であるかが決め手になる。もちろんVol.1のとおり、自分たちの街のシンボルだからこの城が大好きという、郷土愛によるものもあるだろう。
好きな理由は人それぞれ。とにかく城好きの人たちは“熱い”のである。
*1 城郭用語は、新参者にとってはなかなかなじみにくいものである。江戸時代になって成立した軍学に由来するらしいが、「曲輪(くるわ)」、「虎口(こぐち)」、「馬出(うまだし)」、「破風(はふ)」、「狭間(さま)」、「横矢(よこや)」等々。理解するのも大変である。
「土塁(どるい)」や「切岸(きりぎし)」もその一つに数えられるが、山城巡りをするようになってその造成の意味がようやく理解できるようになった。敵の侵入を防ぐために溝を掘ると空堀ができる。その掘った土を高く積み上げて作った壁が「土塁」ということになる。土が崩れないように槌によって突き固められ、強化されたものは「版築(はんちく)土塁」と呼ばれる。岡山県総社市にある「鬼ノ城」の「版築土塁」は圧巻である。
また、山城の場合には、生活スペースを確保するためにどうしても地面を人工的に平らにする削平作業が必要になる。それに併せて、防御ラインとして敵の侵入を防ぐために山の斜面を切土(きりど)して勾配が作られる。人工的に作られた傾斜地が「切岸」になる。地味な存在ではあるが、土による防御から石垣による防御へと時代が変わっても、「切岸」はあちこちの城で良い仕事をしている。
城巡りにあたっては城郭用語をすべて覚える必要はないと思う。自分の興味を持った分野をつまみ食いすれば十分である。
2.天守の分類
「天守」のある城は、ある意味非常にわかりやすい。建築物として人目を惹くだけでなく、「天守」が建っていればなんとなく城らしく見えてくる。さしずめ「現存天守」12城*2は、城マニアにとっての憧れの存在ということになろう。過去を振り返ってみても、城にはこれまで幾度となく滅亡の危機があった(Vol.3)。そのすべてを乗り越えて現在に至っているということは、ある意味奇跡のように感じられる。「現存天守」12城を実際に訪れてみれば、その歴史の重みをリアルに実感することができるだろう。
「現存天守」のほかに、「復元天守」「復興天守」そして「模擬天守」と、「天守」の種類は幾つかに分かれる。「復元天守」は、かつての天守を忠実に再建しようとするものである。復元の仕方としては、鉄筋コンクリート(RC)造によるものと木造によるものがあるが、木造による再建が認められるようになったのは平成の世になってからのこと*3。「天守」復元のためには、かつての天守の外観や内部がわかる古写真、天守が作られた時や修理された時の図面などが必要になるが、たとえそれらが十分に揃っていても、そもそも昭和の時代にはRC造でしか再建が認められていなかったのである。文字通り高い「法律の壁」*4があったためである。
「復興天守」*5は、天守の規模や建っている位置はかつての天守とほぼ同じであるが、外観が異なるものをいう。天守の規模や位置、外観などが史実と大きく異なっているもの、そもそも天守があったかどうかが定かではない(天守が建てられなかった)場所に天守が建てられたものが「模擬天守」ということになる*6。「お城風建物」を含めれば、日本には無数の天守が存在することになる。日本人は城を建てたい、復元・復興したいという強いメンタリティーを持っている。ポジティブに捉えれば、そう評価できよう。
*2 弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、(伊予)松山城、高知城が「現存天守」12城である。
小ぶりながらも気品が感じられる宇和島城天守
*3 白河小峰城(平成3年)、掛川城(平成6年)、白石城(平成7年)、大洲城(平成16年)、新発田城(平成16年)などがこれに当たる。
*4 ハードルになる法律が建築基準法である。当時の建築基準法21条では、高さ13mを超える大規模建築物については防火性、耐震性等を考慮し、主要構造部(壁、柱、はり)を木造としてはならない、という規制があった。このため、白河小峰城三重櫓の再建にあたっては、白河市が「建築物」としてではなく土地に定着している「工作物」として建築許可を得たという経緯がある。しかしながら、「工作別」として再建したことによって、内部に人を入れることができなくなったというジレンマを抱えてしまうことになる。
平成5年に建築基準法が改正され、こうした問題が一気に解決された。建築基準法3条1項に「適用除外」を認める以下の条項が追加されたのである。
「 この法律並びにこれに基づく命令及び条例の規定は、次の各号の一に該当する建造物については適用しない。
一 文化財保護法(昭和25年法律第214号)の規定によって国宝、重要文化財、重要有形民俗文化財、特別史跡名勝天然記念物又は史跡名勝天然記念物として指定され、又は仮指定された建築物
二 旧重要美術品等の保存に関する法律(昭和8年法律第43号)の規定によって重要美術品等として認定された建築物
三 (略)
四 第1号若しくは第2号に掲げる建築物又は保存建築物であつたものの原形を再現する建築物で、特定行政庁が建築審査会の同意を得てその原形の再現がやむを得ないと認めたもの (傍線筆者)」
この建築基準法3条1項第4号に該当することが認められれば、木造による天守の再建が可能になったわけである。白河小峰城のチャレンジによって、「平成の木造天守再建ブーム」が到来し、私たちは木造復元された城を楽しむことができようになったと言える。
*5 現在の大阪城は、日本最古の鉄筋鉄骨コンクリート造の天守になる(昭和6年)。当時としては「大坂夏の陣図屏風」などに基づき忠実に復元されたものであるが、後になって豊臣時代の天守台が発見されたことで、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守を建てたことがわかり、「復興天守」となったものである。
*6 日本最古の「模擬天守」は、洲本城の天守になる。そもそも天守が存在したかどうかが明らかでなかったにもかかわらず、昭和3年、昭和天皇の即位式を記念し大きな天守台の上に小さな天守風建物が建てられた。洲本城は全国的にも希少な「登り石垣」があるだけに、今思えば何とも残念な建築物であったと言わざるを得ない。
「模擬天守」の中である意味別格なのは、伊賀上野城である。地元出身の国会議員である川崎克氏が私財を投入し、史実とは異なる三重の木造天守を昭和10年に再建した。伊賀上野城は、「模擬天守」であるにもかかわらず「日本100名城」(Vol.4)にも選定されている。
3.天守再建にあたっての課題
「復元天守」を含め、戦後の経済復興のシンボルとして全国各所で鉄筋コンクリート造の天守が建てられたという事実を忘れてはならないように思う。天守の中は、歴史資料館や博物館として郷土の皆さん方に愛される存在となっている。自分自身、かつては「現存天守」や「復元天守」でないと城としての価値は低い、史実と異なる天守が建てられた城は残念な城であると考えていた時期があったが、おらが街のシンボルとして愛される存在になっているのであれば、天守の種類は関係ないのではないか。最近はそう考えるようになった。
ひとつだけ、鉄筋コンクリート造の天守について避けて通れない課題がある。「復元天守」「復興天守」「模擬天守」は、昭和30年~40年代にかけて建築されたものが多いが、いずれもコンクリート建築としての使用耐用年数を経過する時期を迎えている。老朽化した天守をどう再建をどうするかという問題である。
「法律の壁」が解消されたことにより、最近は木造天守で再建しようという動きが各所で活発になっている*7。いかにして将来に向けて持続可能な建築物を残していくべきかという視点に立った場合、やはり耐震構造やバリアフリーの問題は避けて通れないように思う。天守再建にあたっては、木造天守一辺倒の前のめりにならない姿勢も一方で必要なように感じるが、いかがだろうか。
*7 名古屋市長が名古屋城天守の木造による忠実な(寸分違わぬ)復元を宣言してから、ゴタゴタが続いていること、既報(2019年12月20日付産経新聞)のとおりである。また、最近では、広島城や松前城でも木造復元に向けての検討が進められていることが報道されている。
👉 Vol.3「城の興亡史」