高さへの挑戦(Vol.22)

皆さんは、「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」というフレーズをご存知だろうか。安土桃山時代や江戸時代における天守は、まさに当時のランドマーク的な存在とも言うべき高層建築物であったが、先のフレーズを強く意識したことによって、領主は天守の建造にあたって高さに対し自主規制を働かせていたというのが今回のコラムである。

1.国譲りの神話

以下は神話の話。古代出雲を支配下に収めていたのがオオクニヌシノミコト(大国主命である。出雲以外にも現在の鳥取県に当たる因幡・伯耆の国、播磨(兵庫県)まで攻入り、さらに越の国(北陸地方)、信濃(長野県)までを勢力下に置いていた。まさに「大国の主」であったと言える。

そのオオクニヌシノミコトに対して、いきなりやって来て「国を譲れ」と迫った者がいる。それが今の皇室の祖先神と言われているアマテラスオオミカミ(天照大神である。アマテラスは元々「高天原(たかまがはら=神の国)」にいたが、「葦原の中つ国(あしはらのなかつくに=日本の古名)」こそ我が子孫の治めるべき国であると、勝手に決めてしまった。そしてオオクニヌシに対して使者を送り、この国の統治権を譲るように命令した。「現世のことは我が子孫がする。お前はあの世のことをしなさい。お前の住む宮殿はすぐに作ってあげよう」。この条件を受け入れ、オオクニヌシは「長(とこ)しえに隠れ」た、すなわち死んだのである。オオクニヌシを祀ったのが現在の出雲大社となる

以上が、古事記や日本書紀に残されている「国譲り」の神話である。あくまでも平和的な話し合いによって「国譲り」が行われた形になっているが、恐らく史実は全く異なるものであったと考えるべきであろう。井沢元彦氏の『学校では教えてくれない日本史の授業』194頁以下(PHP文庫、2013年)の中で詳細な考察が行われている。井沢氏によれば、元々わが国には、ネイティブ・ジャパニーズとして「縄文人」と言われる人々がいた。そこへ農耕文化を持つ「弥生人」が大陸から入ってくる。しかし、「弥生人」の渡来には二段階あり、第一次「弥生人」は青銅器を持った人々で、日本海側に入植、一大勢力を築いた。オオクニヌシノミコトは、まさにその首領であった。そこへ大陸から第二次「弥生人」が入ってくる。彼らは鉄器を持っていた。青銅器を持った文化が鉄器を持った文化に滅ぼされるということは、世界史の中でも繰り返し行われてきたところ。この鉄器を持っていた「弥生人」が大和朝廷のルーツということになる。地方の一大勢力者であったオオクニヌシは、大和朝廷との間で激しい戦いを続け、敗れ、そして殺された。(戦いが熾烈なものであったがゆえに)その祟りを恐れた大和朝廷は、出雲大社を建立して死者の霊を祀るとともに、神話の中では、あくまでもアマテラスの権威に服するという形で平和的かつ友好的な話し合いの下、「国譲り」が行われたという記録を残した。なるほど~! 説得力のあるストーリーであると感じる。

 

2.「雲太、和二、京三」

皆さんは、「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」というフレーズをご存知だろうか。平安初期に貴族の子弟に対し日本の国の基礎知識を教える時に使われていた、『口遊(くちずさみ)』という書にある言葉である。日本の三大建築の覚え方として紹介されているもので、「出雲太郎」「大和二郎」「京三郎」を覚えやすいように略したものと言われている。さしずめ、「一富士、ニ鷹、三茄子」のような語呂だと考えてもらえばよいのかもしれない。

それでは、「雲太」「和二」「京三」はそれぞれ具体的にどの建物を意味しているのであろうか。「京三」の「京」はまさに京都である。都の中心に位置する「大極殿」のことを指している。「和二」の「和」は大和、今で言えば奈良を指す。奈良で大きな建物といえば、東大寺「大仏殿」ということになる。そして「雲太」、出雲地方にある大きな建物が「出雲大社」を指す

はて?「出雲大社」って、そんなに大きな建物だったけ?誰もが感じる疑問である。「出雲大社」の現在の本殿は、江戸時代の1744(延亭元)年に建てられたもので、高さは約24メートル。木造の本殿建築としては国内最大規模と言われているが、明らかに東大寺「大仏殿」よりもスケールは小さい。ということは、古の「出雲大社」本殿はもっと大きかったということになる。古代には32丈(約96メートル)、中世には16丈(約48メートル)であった、という言い伝えが残されている。さすがに96メートルの木造建築は構造的に無理だとしても、48メートルであればあながち信憑性がないとも言えない。特に、2000(平成12)年には、「出雲大社」境内から直径約1.35メートルの巨木を3本組にして一つの柱とする、「巨大柱」が発見されたということもあって、48メートル神殿の実在説がにわかに脚光を浴びるようになっている。

48メートルの巨大神殿とは果たしてどのようなものであったのか。復元プロジェクトに携わった大林組の広報誌を見ると、そのスケールの大きさを想像することができる。「たびかがみ ~昭和初期のフォト紀行」というコラムの中では、神話の件(くだり)と併せて、「雲太、和二、京三」の三つの建物を並べたシルエットが 記されている。「出雲大社」が一番高い建物であることが見て取れる。

 

3.憲法17条との関係性

なぜ「出雲大社」が一番高い建物でなければいけなかったのか。井沢氏の前掲『学校では教えてくれない日本史の授業』218頁以下では、次のような考察が行われている。大和朝廷を作った人たち(第二次「弥生人」)は、第一次弥生人を滅ぼしたがゆえに、怨霊(死者の祟り)を強く恐れた。怨霊を強く恐れていたがゆえに、怨霊を生み出さないようにするためにはどうしたらよいかを真剣に考えた。死者の神殿であるにもかかわらず、16丈(48メートル)に及ぶ高い建物を建築したのは、まさにそのための方策であったと言える。後の聖徳太子は、憲法17条の中で、第一条では「和=話し合い」を大切にしなさい、第二条では仏教を敬いなさい、そして第三条では天皇の命令に従いなさい、と説いている。この三条の並び順は、先の三大建築物である「出雲大社=話し合い(和)」、「東大寺大仏殿=仏教」、「大極殿=天皇」の順番とまさしく一緒である。聖徳太子の時代よりも前から、日本人は、神仏でも天皇でもなく、「和=話し合い」を第一に重んじなければいけないと考え、それが常識となっていた。聖徳太子は、それを憲法という形で明文化したのである。

まさに、学校では絶対に教えてくれない日本史の解釈と言えよう。神話の「国譲り」の話が飛鳥時代の憲法17条と見事に繋がっているという点で、井沢氏の考察は大変に面白い。やはり、思わず「なるほど~!」と頷いてしまう(笑)。

 

4.高さに対する自主規制

明治大学創立120周年を記念して建築された「明治大学リバティタワー」に話は変わる。駿河台キャンパスの中心となる建物で、地上23階、高さ約120メートルに及ぶ超高層ビルである。その昔、筆者自身も2年間ほど駿河台に通っていたことがあるが、平成の時代になって周辺一帯が再開発されたことによって、キャンパスは全く様変わりしてしまった。

エスカレーターでリバティタワーを上層階へ進んでいくと、西側の壁面部分に高層の建築物の高さが記されていることに気づく。誰のアイデアによるものであろうか、個人的には大変にセンスが良いと感じる。ちなみに、9階から10階にかけての壁面部分は、以下のようになっている。

さて、今回のコラムではだいぶ遠回りをしてしまったが(苦笑)、ここから先が本題となる。写真を見てもお分かりのとおり、旧江戸城天守の高さは44.8メートル(寛永度天守の復元模型⇒Vol.10)、姫路城天守の高さは46メートルである。いずれもわが国を代表する名城であるが、「出雲大社」の48メートルという高さを超えていないことがわかる。祟り、怨霊を恐れる気質は、安土桃山時代や江戸時代の世になっても決して変わることはなく、超えてはならない一線として、建造物の高さに対して「自主規制」を働かせていたと考えられる。そう考えると、この壁面は実に興味深い!

待てよ。そんなことにこだわりそうもない武将が一人いたことを忘れていた。「織田信長」である。神仏さえも恐れることのない信長であれば、「48メートルの壁」なんかにひるむはずがない。ただ、彼が築城した「安土城」においても、高さは46メートルであったようだ。井沢氏によれば、「おそらく、大工の棟梁が『自主規制』したものであろう。信長はそれを知らなかったに違いない。知っていればそんな『規制』は蹴飛ばしただろうから」(井沢元彦『逆説の日本史⑩戦国覇王編』(小学館文庫、2006年)334頁)。さもありなん、と思わせる記述である。

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