地震と同様、城にとってのもう一つの見えない大敵が“火災”になります。このコラムでは、「江戸三大大火」の一つである「明暦の大火」を取り上げ、江戸城にはなぜ天守台があるのに天守は存在しないのか、その謎を紐解きます。
1. 火災は城の大敵
Vol.8では城の大敵として地震を取り上げたが、もう一つの見えない敵が「火災」である。城が主に木造の建造物から成り立っている以上、ひとたび城下・城内で火災が発生すると、あっという間に焼失をしてしまうというリスクがある。火災⇒焼失⇒再建⇒火災⇒焼失⇒再建というサイクルを繰り返すことによって、城主たちはいざという時のための防火体制、火災に強い街づくりに腐心をすることになる。
江戸時代、特に江戸の町は火災が多かったと言われている。大火と言われるものは100件以上、実に2~3年に一度は大火に見舞われたことになる。中でも被害が大きかったのが「江戸三大大火」と言われている、「明暦の大火」(1657年)、「目黒行人坂(ぎょうにんざか)大火」(1772年)、「丙寅(ひのえとら)大火」(1806年)である。ここでは江戸城に大きな被害を与えた「明暦の大火」についてまとめてみたい。
2.「振袖火事」のエピソード
明暦3年(1657年)、1月18日から20日までに江戸の街の大半を焼き尽くしたのが「明暦の大火」である。死者は6万8,000余人、焼失地域は現在の千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の葯60%、台東区、新宿区、港区、江東区のうち千代田区に隣接した地域一体である*1。
「明暦の大火」は俗に「振袖火事」と言われる。諸説は色々とあるが、歌舞伎や浄瑠璃などでよく知られているエピソードは、おおよそ以下のとおりである*2。
江戸麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘梅乃は、菩提寺である本郷丸山の本妙寺に参拝に出かけた際、すれ違った寺の小姓らしき美少年に心を惹かれる。それからというもの、梅乃は寝ても覚めても彼のことを想う日々となり、食事も喉を通らず、恋の病に陥る。案じた両親はせめてもの慰めにと思い、かの美少年が着ていたのと同じ模様の振袖を作ったものの、病状は悪化、梅乃は17歳で死亡した。両親は梅乃の葬儀に振袖を本妙寺に納めた。寺では法要が済んだ後、当時の慣例でこの振袖を古着屋に売ってしまった。
翌年、梅乃の命日の日に、上野山下の紙商大松屋の娘きの(17歳)の葬式があり、この振袖が再び本妙寺に納められた。それをまた売り飛ばすと、次の年の同年同月に、本郷の麹屋の娘いく(17歳)の葬式に、三たび、この振袖が本妙寺に納められた。
振袖によってもたらされる因縁を怖ろしく感じた住職は、供養をして振袖を焼き払うことにした。明暦3年1月18日、和尚が読経をしながら振袖を火に投じると、突如として一陣の強風が吹き荒れ、火のついた振袖は火の粉を散らしながら舞い上がり、あっという間に寺の本堂を焼き尽くす。火はどんどんと広がり、江戸の市内を焼き尽くした、というものである。
当時の江戸は、前年から80日以上も雨が降っておらず、大変乾燥した日が続いていた上に、日本海に発生した低気圧が急速に発達、強風が吹き荒れるという条件が重なり、火災危険度が極めて高い状況下にあったことは間違いないであろう。
*1 内閣府ホームページ>内閣府の政策>防災情報のページ>広報・啓発活動>災害史・事例集>歴史災害の教訓報告書・体験集>報告書(1657 明暦の大火)参照
*2 矢田挿雲『江戸から東京』(1920年刊)で紹介されたエピソードが代表的なものとされている。
3.天守の焼失
江戸城の天守は、慶長度(徳川家康)と元和度(徳川秀忠)、寛永度(徳川家光)の都合3度建てられている。明暦の大火があった当時の天守は寛永度天守である。父秀忠が1632年(寛永9年)に亡くなると、徳川家光がその5年後に元和度天守を解体し、自身の天守として立て直したものである。五重五階地下一階の天守は、壁にチャン(松ヤニを原料とした塗料)塗りの銅板を張った最新鋭のもので、屋根も銅瓦を葺き、名古屋城と同じ金鯱を上げていた。天守本体の高さは約44.8m、天守の建築史上最も高い天守である*3。
明暦の大火は、明暦3年1月18日から19日にかけて発生した3件の大規模火事の総称であるが、江戸城を焼き尽くしたのは1月19日午前10時頃、小石川鷹匠町(現在の文京区小石川3丁目)から出火したものである。水戸藩の屋敷を焼いた火は、堀を越え、飯田橋から市ヶ谷、番町へと拡がり、正午から午後1時にかけて天守にも燃え移り、さらに午後4時頃には常盤橋内(現在の千代田区大手町2丁目)の大名屋敷などがいっせいに燃え上がった。猛火は、鍛冶橋(現在の千代田区丸の内)の諸大名邸、旗本屋敷などを焼き尽くした*4。
*3 現存天守で最も高いのは姫路城天守であるが、その高さは約31.5mである。
*4 前掲*1報告書(PDF )「第2章 明暦の大火の出火・延焼経過」19頁参照。
4.天守台の再建、さて天守はどうする?
さて、天守の再建はどうなったのか。焼失直後から天守の再建が計画され、加賀藩主前田綱紀(つなのり)が焼けただれた天守台の石垣を積み直し、家光の天守台と同じ位置に天守台を築き直した。広さは変わらないものの、高さは7間(12.7m)から6間(10.9m)に縮小されたと言われている。これが、本丸跡の北西の端(北詰橋門近く)にある、現在の天守台である。国内最大の天守台、そのスケールの大きさに見る者は圧倒される。
天守台が再建されれば当然次は天守という順番になるが、その再建に待ったをかけた人物がいる。明暦の大火当時には、4代将軍家綱の世になっていたが、その補佐役であったのが先代将軍家光の異母兄弟に当たる会津藩主・保科正之である。「天守は軍事上役に立たず、ただそこからの眺めがいいだけ。現在は武家も町人も家を造っている時で、公共工事が長引けば下々の者にも影響があるに違いない。このような時に労力を費やすべきではなく、当分は延期するのが適切である」。再建不要論を唱えた逸話として知られているのはおおよそ以上のようなものである。
家光の代までのように、幕府の威光にこだわり続けようとすれば、莫大な費用と労力をかけて天守を再建することができたに違いない。明暦の大火直後という客観状況を冷静に見極めた、保科正之の英断によって江戸は天守のない町になったわけである。
天守の再建は行われなかったものの、明暦の大火後、江戸の都市計画は抜本的に見直されることになる。延焼を防止するため、まず徳川御三家を城外に移転させ、江戸城内に火除け地が設けられた。そして、大火の防災のために上野広小路、中橋広小路(現在の八重洲通り)に火除け地が設定された。それに伴い、大名屋敷や寺社地、町人地が城外へ転出、城の周辺部に新しい町が出現した。当時の江戸の町は、敵の侵入を防ぐという観点から橋の数が極端に少なかったが、逃げ遅れた死者が多数出たため、火災後は避難経路を確保するため、各所に橋がかけられた。
消防組織の再編も行われた。旗本四家を選抜したうえで火消屋敷を与え、専門に江戸城の火災警戒にあたらせる、「定火消」を組織した。宝永元年(1704年)には、駿河台、小川町、四谷門内、八代州(やよす)河岸、御茶ノ水、半蔵門外、赤坂門外、飯田町、市谷佐内坂、赤坂溜池の10カ所に「定火消」が編成された。町人地区を火災から守る「町火消」については、享保3年(1718年)に創設され、享保5年(1720年)には、町奉行大岡忠相によっていろは47組(後に48組)と、本所深川16組が本格的に組織されている。明暦の大火による被害のすさまじさを教訓として、江戸の町は、防火・防災体制を一気に進めたことになる。前記1のとおり、その後も大火が江戸の町を度々襲うことになるが、明暦の大火ほどの大規模な被害は発生していない。
5.寛永度天守の復元模型
以上のような経緯で、江戸城には天守がなくなったわけだが、現在、史上最も高い天守と言われる寛永度天守の復元模型が実際に見学できることをご存じだろうか。2020年9月29日から、皇居東外苑・本丸地区の本丸休憩所増築棟において、寛永度天守を30分の1のスケールで制作した模型が一般公開されている*5。
ありし日の江戸城天守をイメージするのには十分な大きさであり、そのポテンシャルは高い。明暦の大火で焼失したというエピソードを思い浮かべながら、是非ご覧になってみてはいかがだろうか。
*5 宮内庁ホームページ>参賀・参観・申込>皇居東御苑>江戸城天守復元模型参照
👉 Vol.11 「地震との戦い その2」