地震との戦い その2(Vol.11)

何度も大震災に遭いながら、その度に逆境を乗り越え、都合4回にわたって天守を再建してきた「小田原城」。このコラムでは、わが国最強(?)の“気の毒な城”と言える「小田原城」の歴史を紹介します。

1. 最強の気の毒な城「小田原城」

日本列島を取り巻く四つのプレートによって日本が世界有数の“地震大国”であることは、既にVol.7で解説したとおりである。築城された場所の立地如何によっては、常に地震リスクと隣り合わせの城というものが存在する。その意味でわが国最強(?)の“気の毒な城”と言えるのが「小田原城」である。

小田原城」が築城されているエリアには、以下のとおり「相模トラフ」がある。「相模トラフ」は、相模湾北西部から房総半島南方を経て、日本海溝と伊豆・小笠原海溝の境界に当たる三重会合点に至る全長300㎞の溝状の地形で、日本列島が位置する陸のプレートの下に、南方からフィリピン海プレートが沈み込んでいる場所に存在する。地震調査研究推進本部(地震本部)によれば、このエリアでは、①フィリピン海プレートと陸のプレートの境界付近で発生する「相模トラフ沿いの M8クラスの地震」と、②フィリピン海プレートや太平洋プレートの沈み込みに伴い発生する、①に比べひとまわり小さい「プレートの沈み込みに伴うM7程度の地震」が発生する*1。後記2のとおり、江戸時代から近代にかけて、約70年という定期的なサイクルで「小田原城」は大震災に見舞われた。その都度粘り強く、そして力強く、復興・復元を遂げている“最強の城”なのである。

地震本部ホームページ・都道府県ごとの地震活動>海溝で起こる地震>相模トラフから引用

 

2.「元禄地震」による甚大な被害

それでは「小田原城」の地震との戦いを概観してみよう。豊臣秀吉による小田原平定後、その所領を与えられた徳川家康は、重臣である大久保忠世(ただよ)を配置した。大久保忠世・忠隣(ただちか)親子の後、稲葉正勝が「小田原城」に入り(1632年)、近世城郭としての整備を行った。その後、再び大久保氏が「小田原城」に入り、幕末を迎える。

寛永10年 1633年 寛永小田原地震 M7.0 小田原城の矢倉・門壁・石垣ことごとく崩壊
慶安1年 1648年 慶安小田原地震 M7.0 小田原城破損、領内で倒壊家屋が多かった
70年後
元禄16年 1703年 元禄地震 M7.9~8.2 小田原城天守倒壊、火災により焼失、城下壊滅状態、死者2300人以上
79年後
天明2年 1782年 天明小田原地震 M7 小田原城破損、家屋葯800余倒壊
71年後
嘉永6年 1853年 嘉永小田原地震 M6.7 小田原城天守大破、領内で倒壊家屋1千余戸
70年後
大正12年 1923年 関東大震災 M7.9 死者・不明者14万2千余人、小田原城二の丸櫓倒壊、石垣の大部分崩壊
99年経過

小田原城天守が最初に築かれた時期はよくわかっていないが、前期大久保時代の慶長年間(1596~1615年)の絵図には望楼型天守(初代天守)が、寛永年間(1624~1644年)の絵図には層塔型天守がそれぞれ描かれていることから、稲葉正勝による近世城郭への本格的整備の際に層塔型天守(二代目天守)が再建されたと考えてよいであろう。まさにその最中に、「寛永小田原地震」と「慶安小田原地震」が発生した。これによって城内の整備が一層大変になったことは想像に難くない。近世城郭の整備は延宝3年(1675年)に終了している。

元禄地震」は、1703年12月31日、相模湾から房総半島の先端部、房総半島南東沖の相模トラフ沿いの地域を推定震源域とする巨大地震(前記1の①「相模トラフ沿いの M8クラスの地震」)である。被害状況から、関東地方の南部の広い範囲で震度6相当、相模湾沿岸地域や房総半島南端では震度7相当の揺れであったと推定されている。特に小田原エリアの被害は甚大であった。小田原天守は倒壊、地震発生後の火災によって焼失し、小田原領内の死者は2,300 名以上であったと言われている。また、この地震によって、房総半島から伊豆半島に至る沿岸に巨大な津波が押し寄せた。地震動と津波による「元禄地震」の死者は、1万人以上と推定されている。

現在の小田原城天守閣1階の常設展示室には、「小田原城再興碑」が展示されている。宝永3年(1706年)、当時の藩主大久保忠増によって天守が再建された復興の経緯を伝える貴重な資料である*1。「宝永再建天守」(三代目天守)は三重四階の層塔型天守で、一階平面は長辺が11間(1間=約1.9m、約21m)、短辺が9間(約17m)と、三重天守としては極めて規模が大きい。五重天守の標準的な間口(長辺方向の大きさ)は11間から8間と言われていることからも明らかなとおり、その大きさは五重天守に匹敵するものである。ちなみに、この「宝永再建天守」(三重天守)には雛型(模型)*2が3基存在し、現在の小田原城天守閣ではこのうち2基を見学することができる。

*1  この「小田原城再興碑」は、後記3の大正12年(1923年)の関東大震災の際、崩落した天守台の石垣の中から偶然発見されたものである。写真の再興碑には、「元禄十六癸未年十一月廿二日夜地震天守城楼回禄翌年春剏再興之事宝永二乙酉年四月日天守白楼以下迄外郭惣石壁築成矣於是彫攻干畳石以誌焉」と記されている。

*2  三重天守の雛型には、「大久保神社所蔵のもの」、「東京国立博物館所蔵のもの」、「東京大学所蔵のもの」がある。このうち、「大久保神社所蔵のもの」が1階の常設展示室1に、「東京大学所蔵のもの」が5階の常設展示室3にそれぞれ展示されている。写真は、大久保神社所蔵のものである。

 

3.その後の地震との戦い

宝永再建天守」は、その後、「天明小田原地震」、「嘉永小田原地震」と二度の直下型地震に遭遇し、大きなダメージを受ける。特に天明2年(1782年)の「天明小田原地震」では、「午前二時頃小田原大地震小田原城下ノ町屋多数並ニ城内櫓三所倒壊シ城内石垣大破天守閣甚ダ北東ニ傾ク」(大久保忠真候年譜)とあるように、天守が傾く事態となった。傾いた天守は、綱で引き起こして修復されたと伝えられている。

嘉永6年(1853年)の「嘉永小田原地震」によって再び「宝永再建天守」は大破する。この時期、幕府は朝廷との関係を緊密にすることで立て直しを図ろうとしていたこともあり、「小田原城」はその重要な拠点になっていた*3。「宝永再建天守」はそのまま生き残り、幕末を迎えた。

*3 慶応元年(1865年)には、14代将軍家茂が三度目の上洛にあたり小田原城の二の丸屋形に宿泊をしている。

明治6年(1873年)に政府によって「廃城令」が出されたことはVol.3のとおりであるが、「小田原城」についてはそれよりも前の明治3年(1870年)に「廃城願」が出されている。新政府との関係で恭順の姿勢を見せる必要があったこと、大規模な「小田原城」の維持が困難であったことがその理由に挙げられよう。「宝永再建天守」や三の丸二重櫓などが民間に払い下げられ、解体された。唯一残ったのは二の丸平櫓であり、明治34年(1901年)には二の丸御殿跡地に小田原御用邸が建てられた。

大正12年(1923年)、「関東大震災」が発生した。前記1の①「相模トラフ沿いの M8クラスの地震」であり、そのマグニチュードは7.9であったと推定される。「元禄地震」同様、小田原エリアの被害は甚大であり、「小田原城」で唯一残存していた二の丸平櫓は倒壊、天守台や本丸の石垣はすべて崩れ落ち、御用邸も大破した。現在の「小田原城」の本丸南側の一角には、「関東大震災」によって崩れた石垣が遺構として残っている。偶然にも積み上げられていた姿のままで滑り落ちたというもので、江戸時代の本丸石垣の様子が良く残されている。見応え十分である。

*写真は、かつての「南曲輪」のエリアにあった石垣。石垣のコーナー部分の積み方がそのままの姿で確認できる。

 

4.四代目の再建天守

「関東大震災」によって壊滅的な被害を受けた「小田原城」であるが、昭和の時代に入り復興が始まる。震災後間もない昭和9年(1934年)、二の丸平櫓(隅櫓)が再建された。小田原市政20周年を記念し、昭和35年(1960年)には鉄筋コンクリート造で四代目天守が再建されている。前記2の江戸時代の天守雛型(模型)、明治時代の解体中の状況を撮影した古写真等を参考にして、「宝永再建天守」をほぼ忠実に復元したものである。こうして重厚長大な三重天守を我々は今も楽しむことができるのである。

平成の時代になって、「小田原城」の整備が着々と進められている。平成9年(1997年)には二の丸の表門に当たる銅(あかがね)門が、平成21年(2009年)には馬出門がそれぞれ復元されている。これによって、馬出門~馬屋曲輪~銅門という往時の登城ルートが整備され、江戸時代の「小田原城」の雰囲気を今まで以上に体感できるようになった。

平成28年(2016年)には、小田原城天守の改修が行われた(平成の大改修)。これによって常設展示が全面的にリニューアルされ、前記2の天守の雛型(模型)や「摩利支天像」の安置空間が最上階に再現された。雛型(模型)の調査を進めることによって、江戸時代の小田原城天守最上階には、武士の守護神として信仰されていた「摩利支天像」が祭られていたことが明らかになり、再現されたものである。展示のリニューアルもさることながら、平成の大改修の主目的は耐震補強工事であった。各階に耐震ブロックを設置して耐震性能を強化するとともに、屋根や外壁の補修などが行われている。「関東大震災」の発生からもうすぐ100年。幾多の震災を乗り越えてきたわが国“最強の城”は、将来の有事にしっかりと備えているのである。

👉 Vol.12 石垣の話 その1

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