『廃城をゆく』という名著がありますが、ここでいう「廃城」とは中世城郭や戦国時代の山城のこと。「続日本百名城」の選定によって、今ではこうした「廃城」にもスポットが当たっています。その一方で、来場者や来館者の減少によってランニングコストやメンテナンスコストが維持できなくなり、閉鎖・閉館に追い込まれた「模擬天守」が少なからず存在します。今回は、そんな“シン・廃城”である「大峰城」を訪ねてみました。
1. 名著『廃城をゆく』
『廃城をゆく』*1という本をご存じだろうか。織豊時代や江戸時代に築城された近世城郭では、天守、高石垣そして広い水堀が三点セットになっており、現在は観光地として整備されているところが多い。『廃城をゆく』では、そんな近世城郭とは一線を画した中世城郭や戦国時代の山城などにスポットを当て、その魅力を徹底的に伝えるというもの。山中に分け入り、深い藪をかき分けて進んでいくと、その先に待っているのは“廃城”。“廃城”にこそ、城鑑賞の本当の醍醐味がある。ぶれない、素晴らしい企画である。
“廃城”とは言っているが、そこで対象になっているのは例えば兵庫県の竹田城(日本百名城No.56)、岐阜県の岩村城(日本百名城No.38)、滋賀県の安土城(日本百名城No.51)、奈良県の高取城(日本百名城No.61)、山梨県の要害山城(続日本百名城No.128)、埼玉県の杉山城(続日本日本百名城No.119)など、城好きであれば誰もが認める名城ばかりである。特に「続日本百名城」の選定によって、多くの中世城郭や戦国時代の山城にスポットが当てられ、その保存・整備が一段と進められることになった。“廃城”と言うよりは、今や“輝ける城”になったと言えるのかもしれない。
*1 『廃城をゆく』(イカロス出版)は、2010年(平成22年)7月30日が初版。以後、シリーズ化され、現在「シリーズ7」まで続いている。中世城郭や戦国時代の山城の魅力を伝える、人気シリーズと言ってよいであろう。
2.全国の「模擬天守」
戦後の経済復興のシンボルとして、昭和の時代には全国各地に鉄筋コンクリート造の「復元・復興天守」、さらには壮麗優美な「模擬天守」が建てられるようになったことはVol.2のとおりである。史実とは異なる、天守が存在しなかったのにもかかわらず建てられた「模擬天守」の数は、全国津々浦々、実に多い。(「日本百名城」や「続日本百名城」には選定されていない)主な「模擬天守」をピックアップしてみると、以下のとおりになる。
大峰城 | 1962(昭和37)年 | 長野県長野市 | |
伏見桃山城 | 1964(昭和39)年 | 京都府京都市 | |
横手城 | 1965(昭和40)年 | 秋田県横手市 | 郷土資料館 |
撫養(むや)城 | 1965(昭和40)年 | 徳島県鳴門市 | トリーデなると |
三戸城 | 1967(昭和42)年 | 青森県三戸市 | 三戸城温故館*2 |
杵築城 | 1970(昭和45)年 | 大分県杵築市 | 歴史資料館 |
神岡城 | 1970(昭和45)年 | 岐阜県飛騨市 | 歴史資料館 |
天神山城 | 1970(昭和45)年 | 埼玉県秩父郡長瀞町 | |
中村城 | 1973(昭和48)年 | 高知県四万十市 | 郷土資料館 |
湧谷城 | 1973(昭和48)年 | 宮城県遠田郡湧谷町 | 湧谷町立資料館(休館中)*3 |
騎西(きさい)城 | 1975(昭和50)年 | 埼玉県加須市 | 郷土資料館 |
日和佐城 | 1978(昭和53)年 | 徳島県海部郡美波町 | 勤労者野外活動施設(入館禁止中)*4 |
江美(えび)城 | 1979(昭和54)年 | 鳥取県日野郡江府町 | 歴史民俗資料館 |
川島城 | 1981(昭和56)年 | 徳島県吉野川市 | 勤労者野外活動施設(休館中) |
上山城 | 1982(昭和57)年 | 山形県上山市 | 歴史資料館 |
館山城 | 1982(昭和57)年 | 千葉県館山市 | 八犬伝博物館 |
因島水軍城 | 1983(昭和58)年 | 広島県尾道市 | 歴史資料館 |
綾城 | 1985(昭和60)年 | 宮崎県東諸諸見郡綾町 | 歴史資料館 |
川之江城 | 1986(昭和61)年 | 愛媛県四国中央市 | 歴史資料館 |
小山城 | 1987(昭和62)年 | 静岡県棒原郡吉田町 | 歴史資料館 |
*2 「三戸城」は、2021年(令和3年)12月17日に開催された国の文化審議会において、「戦国末期から近世初頭における北東北の築城技術を知る上で重要」であるとして、国史跡に指定された。この指定に伴い、天守風の歴史資料館「三戸城温故館」については、史実に基づかない建造物であるとして、文化庁から将来的に撤去が求められている。
*3 「湧谷城」の湧谷町立資料館は、2022年(令和4年)3月16日に発生した福島県沖地震によって建物に損壊が生じたため、当面の間、休館となっている。
*4 「日和佐城」は、瓦の大規模破損があったため、当面の間、閉館(敷地内立入禁止)となっている。
さらに極めつけとなったのは、「ふるさと創生事業」である。1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて、各市区町村に対して地域振興のために1億円を交付した政策として有名であるが、この「ふるさと創生金」を原資として「模擬天守」を建てた自治体がある。1990(平成2)年に鳥取県湯梨浜町に「羽衣石(うえし)城」が、1991(平成3)年に岐阜県大垣市に「一夜城」のエピソードで有名な「墨俣城」が、1994(平成6年)に鳥取県鳥取市に「河原城」がそれぞれ建てられている。いやはやなんとも、日本人は本当に“お城”が大好きなのである。
3.“シン・廃城”
「模擬天守」は、前記のとおり歴史資料館や郷土資料館、博物館などとして利用されている。周辺部が公園として整備されるとともに、最上階には展望室が設けられ、遠く街並みを一望できるその眺めはなかなかのもの。本来の城の歴史からみると史実と異なる結果になったにせよ、地元のシンボルとして街の人たちに長らく愛され、憩いの場になっているのであれば、「模擬天守」もまた“良し”とするのが筆者の最近の考えである。
大変厄介なのは、来場者や来館者の減少によってランニングコストやメンテナンスコストが維持できなくなり、閉館・閉鎖に追い込まれている城が実際に存在することである。周辺エリアが野放し状態のままとなり、そもそも城へのアクセスができなくなっているところもある。Vol.2のとおり、鉄筋コンクリート造の建物には耐用年数というものがある(法律で定められている一つの目安は47年)。いずれは建物自体を取り壊さなければいけない時期が必ずやって来るが、誰が、いつこれを実施するのか、その費用は誰が負担するのか。曖昧なままである。
筆者は、こうした大変困った状態にある城を“シン・廃城”と呼ぶ。朽ち果ててしまうまでに残されている時間は、決して多くはない。
4.「大峰城」
さて、長野市にある「大峰城」である。歴史的に見てこのエリアは、武田信玄と上杉謙信がかつてしのぎを削って争った場所である。城の沿革については不明な点が多いが、武田氏の旭山城に対する向城として上杉方が築いた山城であると言われている。かの有名な「川中島の戦い」では双方による激しい争奪戦が行われた。
1962年(昭和37年)、長野市が観光促進のために4階建ての鉄筋コンクリート造の模擬天守を建設した。当時、「大峰城」に関する学術調査は特に行っていないようである。当初は展望台として使用していたが、1981年(昭和56年)に「大峰城チョウと自然の博物館」となり、1階と2階の部分に博物館(約3,000種類の蝶の標本が展示)、3階に城の歴史紹介コーナー、4階が展望台となった。
転機となったのが1985年(昭和60年)に発生した「地附山地すべり災害」である。長野市西方の地附山南東斜面に地すべりが発生し、山麓部にあった老人ホーム松寿荘や湯谷団地を襲い、26名が帰らぬ人となった。災害によって戸隠バードラインの一部が廃道となり、アクセスが悪くなったことで来場者数が激減。2007年(平成19年)12月に博物館は閉鎖となった。現在、模擬天守内は立入禁止の状態である。
外観からの見物は可能なようだったので、2022年4月、思い切って“シン・廃城”「大峰城」に分け入ってみた。
分岐を右へ進み、大峰城へ。車での通行は可能
付近には登山道が整備されており、山登りに訪れる人たちも多い。堀切も残されている。学術調査を行ったうえで、山城として再度整備するプランはどうか。堀切も武田と上杉がしのぎを削った山城に思いを馳せる人もいるだろう。たとえ今は“シン・廃城”であっても、戦国時代の山城として再生する道があるのではないか。現地を訪れてみて、そんな思いを強くした。
[…] 👉 Vol.14 「“シン・廃城“を行く ー 大峰城編 ー」 […]
模擬天守って云うのは滑稽を通り越して悲劇的ですね。
勝手に落城したら洒落にならないです。
数日前郷里群馬の岩櫃城を要する東吾妻町を通ってびっくり。
しばらく訪れないうちに記憶にないところに変な建物が!
すわっ 天理教の本部そっくり!
いや?模擬天守か?
答えは町役場
笑いを通り越してアホらしくなっちゃいました。
https://gunma-convention.jp/convention/%e6%9d%b1%e5%90%be%e5%a6%bb%e7%94%ba%e5%bd%b9%e5%a0%b4%e5%ba%81%e8%88%8e/
斎藤さん、いつもご一読をいただき、ありがとうございます。
戦後日本の経済復興のシンボルとして、あちこちに模擬天守が作られましたが、それが
老朽化するとともに、「大峰城」のように放置されているものまで存在しています。
命を与えられた城にとっては、あまりにも“せつなく”、“悲しい”末路だと感じます。
今どき天守風の建物を建てる市町村があるとは夢にも思いませんでしたが、縁あって
この世に生を得た以上は、役場として末永く残ってほしいと願います。