石垣の話 その1(Vol.12)

「石垣」は城好きにとってやはり特別な存在。このコラムでは、石を積むという行為がいつ頃から行われるようになったのか、そしてわが国最初の本格的築城と言われている「古代山城」についてまとめてみました。

1.いつから、誰の手によって?

城好きにとっては、「石垣」はやはり特別な存在かもしれない。天守や櫓の土台に用いられた場合の建造物としての「映え」。苦労して登ってきた山道の一角に突如として「石垣」を発見した時の感動。なかなか言葉に尽くせないものがある(笑)。

石を積むという作業は、何のために、一体いつ頃から行われるようになったのだろうかそもそも城の防御に「石垣」を用いることは、いつから、誰の手によって行われるようになったのだろうか。ここでは、城好きにとって憧れの存在とも言える「石垣」の歴史についてまとめてみたい。

 

2.古墳時代に遡る

いわゆる「パワースポット」と呼ばれる場所や神社、山道などでは、「積石」がよく見かけられる。霊場として有名な「恐山」には「賽の河原」と呼ばれている場所があるが、ここでは無数の石を積み上げた数多くの石塔を見ることができる。「賽の河原」のエピソード*1を知ったうえでこの場所を訪れると、何とも言えない切なさを感じるであろう。

もともと石を積むという行為には、宗教的な意味合いが強かったと考えてよいと思われる。古代の人たちは自然界のあらゆる物を崇拝の対象としていたが、もちろん「」も神が降臨する場所神が宿る「依り代(よりしろ)」として、信仰の対象となっていた。「磐座(いわくら)*2に象徴されるような巨石信仰はもちろんのこと、石を積んで塚を作る行為が古代から行われてきたのである。

*1 「賽の河原」とは、親に先立って亡くなった子供が苦を受けると信じられている冥土(めいど)にある河原のこと。具体的には「三途の川」の手前ら辺と言われている。親に先立って亡くなった子供は、この「三途の川」付近で石積みを行わなければならない。仏教の世界では親より先に亡くなることは一番の親不孝だとされており、親を悲しませた子供は罪を償うために石を積み上げるというわけだ。ところが、幾ら石を積み上げても、完成しそうになると鬼がやって来て、石の塔を壊してしまう。また、子供は最初から石を積み直す。転じて、無駄な努力を続けること、きりがないことのたとえとして、「賽の河原」の石積みという比喩が用いられる。

*2 「磐座(いわくら)」の遺跡は全国に点在しているが、静岡県浜松市にある「天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡」はひと際目を引くものである。自然の造形とは決して思えないほど、見事にバランスの取れた配置で巨石が点在している。幾つもの土器の破片や鉄鉾、勾玉、和鏡などが発見され、4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)まで続いた祭祀場だったことがわかっている。

また、現在になってもなお何のために、いつ造られたかがよくわかっていない、花崗岩の巨石によって作られた奈良県橿原市の「益田岩船(ますだいわふね遺跡がある。

 

石を積む行為に建造物としての意義が明確に持たれるようになったのは、少なくとも古墳時代にまで遡る必要があろう。古墳内に遺体を安置するために造られた「石室」や古墳の墳丘斜面などに施された「葺石(ふきいし)」は、その一例である。

石室」は石を積み上げて壁を作り、上の部分を大きな石で塞いだもの。その構造から、墳丘の上頂部に長方形の穴を掘り、底に粘土や礫を敷き、棺を安置する「竪穴式石室」と、墳丘の横に入口を作り、中心部に向かって「石室」を広げ、棺を安置する玄室と通路に当たる羨道(せんどう)から成る「横穴式石室」とに分かれる。古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)には「竪穴式石室」が、中期後半から後期(5世紀~7世紀)には「横穴式石室」が築かれるようになったとされている。石を運び、積み上げ、そして加工する技術が既にわが国にはあったということである。古代日本は朝鮮半島の国々と友好的な関係を構築しており、高句麗系の高麗(こま)氏、新羅系の秦(はた)氏、百済・伽耶(かや)系の漢(あや)氏など、多数の渡来人が海を越えてやって来た。こうした渡来人によってもたらされた新しい技術の中に、石積み技術があったということになる。

葺石」は古墳の墳丘斜面などに敷き詰められた礫(れき)のこと。一般には河原石がよく用いられている。古墳を築造する際にただ土を盛るだけだと、大きな古墳になればなるほど土が崩れやすくなる。「葺石」は、雨風によって墳丘の盛土が崩れるのを防ぐために作られたものである。さらには、墳丘と他の空間を区別することで神聖化を図ること、外観を荘厳なものにすることなどの目的があったと考えられている。

「石室」と「葺石」において石を積む技術は、復元・整備された多くの古墳で確認することができる。その一例として挙げられるのが、4世紀に築造されたと言われる「森将軍塚古墳」(長野県千曲市)である。現地を訪れ、「竪穴式石室」と「葺石」の復元をじっと眺めてみる。規則正しく、そして整然と配列された石積みの技術は見事としか言いようがない。後の時代に続く城の「石垣」の原点、ルーツがここにあるのではないだろうか

*森将軍塚古墳の「竪穴式石室」の復元

*森将軍塚古墳の「葺石」の復元

*森将軍塚古墳の全容

 

3.わが国最初の本格的築城…「古代山城」

古代山城」を「こだいさんじょう」と読める方は、なかなかの“城好き”と言ってよいであろう。中世の「山城」は“やまじろ”と読むが、「古代山城」では“さんじょう”と読む。中世の「山城」が曲輪を単位にして、堀切や切岸を遮断線としているのに対し、「古代山城」は曲輪を持たず、山地全体を土塁や石垣で囲い込む形になっている。両者は根本的に構造が異なっており、系譜的にも別物なのである。

朝鮮半島では4世紀~7世紀の長きにわたり高句麗、新羅、百済の三国鼎立時代が続いていた。前記2のとおり、古代日本はこの三国それぞれと友好的な関係を築いてきたが、中国大陸を統一した隋および唐の時代に入ると、朝鮮半島では俄かに緊張関係が高まっていく。隋・唐の侵略を常に受ける位置にあった高句麗は百済との連携を強化、一方の新羅は唐と手を結んだ。唐・新羅の連合軍は、660年に百済を滅ぼしている。

当時の日本は大和朝廷・斉明天皇の時代。百済は日本と最も有効的な関係にあったこともあり、日本は百済からの多くの難民を受け入れるとともに、大国・唐を敵に回すリスクを冒してまで百済支援を決断する。急逝した斉明天皇の後を受け継いだ中大兄皇子(後の天智天皇)の指揮によって、総勢3万人とも言われる大軍勢が朝鮮半島に渡った。しかし、白村江の戦い(663年)によって唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済再興の夢はここに散ることとなる。勢いに乗った唐・新羅の連合軍は、668年に高句麗を滅ぼした。

「古代山城」(こだいさんじょう)が築城された背景に、以上のような国際的緊張関係があった点を見落としてはならない。唐と新羅に対して面と向かってケンカを売った以上、自国がいつ攻撃されても不思議ではない。大宰府防衛ラインとしての「水城(みずき)」、そして「大野城」の築城は、まさに国土防衛策の一環として行われたものであり、白村江の戦いの直後の築城というタイミングも納得できるところであろう*3

「古代山城」はVol.3で触れたとおり、長きにわたり『日本書紀』『続日本紀』などの官選史書に名前が載っている“朝鮮式山城”と、官選史書に名前が載っていない“神籠石(こうごいし)*4系山城”に分類されてきた。「神籠石系が古く、朝鮮式が新しい」ものという固定観念があったが、最近の調査研究によって、両者に大きな差異はないことが明らかとなり、「古代山城」として一括りにするようになっている。7世紀後半、西日本エリアには「筑紫」「周防」「伊予」「吉備」という広範な行政ブロックが敷かれていた。わが国初めての本格的築城である「古代山城」には、前記のような祖国の防衛ラインとしての意味に加えて、時の大和朝廷の地域支配の拠点としての意味があったものと考えられている

大野城」の「百間(ひゃっけん)石垣」は実に壮大である。総延長は約180mに及ぶと言われている。城郭の建設を担当したのは、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)という、二人の亡命百済人。大小さまざまな大きさの石が横位置にバランスよく積まれ、その面はきれいにそろっている。石垣は硬い岩盤の上に傾斜をつけて積んであり、その傾きは70度から80度。下から見上げるとあたかも垂直の壁のようである。今から約1300年以上も前に、これだけの石垣を積む高い技術があったことに驚かされる。

*大野城の百間石垣 その1

*大野城の百間石垣 その2

同じような大きさの石をある程度揃えつつ、きれいに横目地が通った「百間石垣」を眺めていると、どうしても古墳時代の石積み技術のことを思い出してしまう。そんなデジャヴを感じるのは私だけだろうか

*3 日本書紀によれば、天智天皇3年(664年)筑紫国に「水城」(福岡県太宰府市)を、天智天皇4年(665年)長門国に一つ、筑紫国に「大野城」(福岡県太宰府市)と「基肄(きい)城」(佐賀県基山町)を築かせたとある。朝鮮半島に対する防衛ラインとして、筑紫とともに長門が重視されていることは非常に興味深い。天智天皇6年(667年)には、「高安城」(奈良県平群町)、「屋嶋城」(香川県高松市)、「金田城」(長崎県対馬市)がさらに築かれている。

長門の山城のように、文献史料に明記されながら現在もなお遺跡地が判明していない山城が幾つも存在している。

*4 明治31年(1898年)、福岡県久留米市の高良山で見つかった、高良大社を囲む列石が「神籠石(こうごいし)」として紹介されたことがきっかけとなり、神聖な土地を囲む「神域説」と防衛のための「山城説」との間で論争となった。昭和38年(1968年)の「おつぼ山神籠石」(佐賀県武雄市)の発掘調査で、版築土塁と堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定されたと言われている。

前記のとおり、文献に記録のない「山城」が長らく“神籠石系山城”と分類されてきたが、「鬼ノ城」(岡山県総社市)の発掘調査の進展によって、その築城・維持されていた年代が7世紀後半を中心としていることが判明したこと、「御所ヶ谷城」(福岡県行橋市)、「永納山(えいのうさん)城」(愛媛県西条市)など、文献に記録のないその他の山城からも7世紀後半から8世紀初め頃の土器が出土されたことによって、“神籠石系山城”が古いという説が誤りであることが明らかになった。

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*城びと・ホームページ「超入門!お城セミナー第55回【歴史】日本の古代にお城があった!?謎多き『古代山城』って?」から引用。ここに長門の国の山城と「高安城」(奈良県平群町)を加えて全体を俯瞰してみると、防衛ラインとしての「古代山城」は縦長に近接して、地域支配の拠点としての「古代山城」は横ラインに点在して配置されていることがよくわかる。

👉 Vol.13 風水害との戦い その1

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