城の興亡史(Vol.3)

このコラムでは、城の誕生から衰退までの歴史を解説しています。①元和の一国一城令、②明治維新の廃城令、③太平戦争末期の昭和20年、城の衰退期として三つの大きな転機がありました。

1.誕生から発展まで

城の始まりはいつか。その起源は弥生時代、集落を作った人々が自分たちの作った耕地や作物を他者から守るために堀や柵を作ったことにあると言われている。吉野ヶ里(日本100名城No.88)の環濠集落へ行ってみると、その意味がよく実感できる。城という漢字が「土が成る」という構成になっていることからしても、もともと城は土の構造物であったと考えてよいのであろう。

  吉野ヶ里を単なる弥生時代の遺跡と見るなかれ。城のルーツがここにある

白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に敗れた飛鳥時代は、外交的にも非常に緊張感のある時期であった。天智天皇の命によって築かれた大野城(日本百名城No.86)は「古代山城*1の一つとして名高いが、築城にあたって異国からの祖国防衛という視点があった点に注目したい。

平安時代は比較的平和な世であったということもあり、この時期に外敵として意識されたていたのは東北地方の蝦夷(えみし)であった。その征服のために東北地方各所に拠点として設けられたのが城柵(じょうさく)である。多賀城(日本百名城No.7)はその一つであるが、往時は政務・軍事の拠点として築地塀(ついじべい)によって四方を囲まれていた。

鎌倉時代になって武士の世になるが、武士は水堀と土塁で囲まれた方形の「館」に住んでいた。外敵の侵入を防ぐ構造になっているという点でこれも城に属するものであり、足利氏館(日本百名城No.15)が有名である。南北朝争乱の時期には、千早城(日本百名城No.55)が山城として築かれているが、その性格は戦闘のための一時的な拠点に過ぎなかった。山を削り、土を盛るなどの人工的な造作(切岸、堀切、土塁など)を加えた恒久的な軍事施設としての山城が登場するのは、戦国時代の世になってからである。全国最大級の山城と言われている郡山城(日本百名城No.86)は山全体を要塞化したもので、往時には270以上の曲輪(区画)があった。武将やその家臣は、不便を感じながらも山中で日常生活を営んでいたということになる。

*1 「古代山城」(こだいさんじょう)は、朝鮮式山城と神籠石系(こうごいしけい)山城に分けられる。『日本書紀』などの官選史書に名前が載っているのが朝鮮式山城で、大野城のほか、朝鮮半島に近い対馬にある金田城(続日本百名城No.186)などがこれに該当する。この時代(飛鳥時代)に既に石垣を構築する技術があったことは、特筆されるべき点であろう。

一方、官選史書に名前が載っていないのが神籠石系山城である。Vol.2で触れた鬼ノ城(日本百名城No.176)がこれに当たる。

 

2.築城ラッシュの後に

織田信長、豊臣秀吉の時代になると、全国各所の大名によって築城ラッシュを迎える。城が領国拠点の要・シンボルになったことによって、築城場所も山間部から平野部へと変わり、天守や櫓などの建築物、石垣や縄張などに築城技術の粋を結集した、いわゆる「近世城郭*3が誕生する。ここに日本の城作りはピークを迎える。

しかしながら、徳川の世に入ると、以下のとおり城の破壊や築城の禁止が命じられることになる。城の衰退の始まり(第一期)である。

(1)元和の一国一城令

元和元年(1615年)、江戸幕府は一国に大名が居住あるいは政庁とする一つの城郭を残して、他の城(支城)はすべて廃城にするという、「一国一城令」を発令した。大阪夏の陣によって豊臣氏を滅ぼした徳川家康が、諸大名の軍事力をさらにそぎ落とすことを目的として発令したものである。全国に3,000以上あったとされる城が170ぐらいになったと言われている。これによって、高岡城(日本百名城No.33)、伏見城備中高松城(続日本百名城No.171)、岩国城(日本百名城No.74)、一宮城(続日本百名城No.176)など、多くの名城が廃城となっている。

(2)島原の乱後の破却令

寛永14年(1637年)、天草史郎時貞を首領とする一揆軍が前記「一国一城令」によって廃城となった原城(続日本百名城No.171)に立て籠もり、幕府軍と戦闘するという島原の乱が発生した。一揆鎮圧までには3か月以上を要した。事態を重く見た江戸幕府は、破却した城の再利用ができないように石垣まで破壊し埋めさせるという、新たな破却令を1638年に出した。前記の原城、元和の一国一城令で既に破却された岩国城などでは、これによって石垣の破壊が徹底的に行われることになる。

*2  同じく元和元年(1615年)、「一国一城令」とともに「武家諸法度」が制定された。これによって、大名は幕府の許可なく新たな城を築城することや改修することができなくなった。江戸時代には城自体の総量規制が行われていたことになる。

*3    「近世城郭」以前の城を「中世城郭」と呼ぶことがある。土塁中心の土の城、簡素な建物、本丸と他の曲輪との上下関係が明確でないといった点が「中世城郭」の特徴であるのに対し、「近世城郭」は石垣中心天守や御殿などの大きな建物本丸を中心とした城作りが特徴になる。

 

3.明治維新後の「廃城令」

嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、外国船が次々と日本近海に押し寄せるようになり、外交的な緊張関係が増したことによって、防衛という観点から再び築城が必要になった。日本最後の近世城郭である松前城(日本百名城No.3)、さらには星形の西洋式土塁である五稜郭(日本百名城No.2)は、いずれもこのタイミングで築城がなされたものである。幕末時点では、幕府直轄の江戸、大阪、駿府、二条、甲府の5城と161の大名の居城、藩の属城などを合わせて約180の城があったと言われている*4

明治維新の世になり、版籍奉還や廃藩置県が行われると、城は旧体制時代を象徴する、まさに無用の長物になってしまった。明治6年(1873年)、いわゆる「廃城令*5が出される。城の土地建物はそれまで陸軍省の財産になっていたが、陸軍が軍事目的に引き続き使用するものは存城処分、それ以外は廃城処分として大蔵省に引き渡され、売却用の普通財産とする、というものである。これによって城は第二期の衰退を迎える

「廃城令」によって存城処分となったのは、江戸城(日本百名城No.21)、仙台城(日本百名城No.8)、名古屋城(日本百名城No.44)など、43城であったと言われている。しかしながら、存城の前提はあくまでも軍事利用であったため、石垣を破壊したり、建造物を取り壊したりする例が各所で見られた。当時は、城を文化財として保護しようとする概念がなかったからである。中村重遠(しげとお)陸軍大佐が陸軍トップの山縣有朋に建白書を提出し、これが認められて姫路城(日本百名城No.59)と名古屋城の保存・修理が認められたというエピソード*6、天守解体が決まっていた彦根城(日本百名城No.50)を惜しみ、北陸行幸に来られていた明治天皇に天守の保存を奏上した大隈重信*7のエピソードはいすれも有名である。

昭和の時代に入って「国宝保存法」が制定され、ようやく城を文化財として保護する環境が整った。戦前には旧国宝に指定されていた城が24城*8存在していた。

*4    平成25年(2013年)9月1日付日本経済新聞朝刊。

*5 正式には、太政官から陸軍省に発せられた太政官達「全国ノ城郭陣屋等存廃ヲ定メ存置ノ地所建物木石等陸軍省ニ管轄セシム」の件、同じく大蔵省に発せられた太政官達「全国ノ城郭陣屋等存廃ヲ定メ廃止ノ地所建物木石等大蔵省ニ処分セシム」の件の総称である。

*6 姫路城には、菱の門から入ってすぐ左に中村重遠大佐の顕彰碑がある(姫路城完全観光案内所)。

*7 北陸行幸は明治11年(1878年)に行われているが、大隈重信は当時の明治政府の参議として同行していた。

*8 1.名古屋城、2.姫路城、3.仙台城、4.岡山城((日本百名城No.70)、5.福山城(日本百名城No.71)、6.広島城(日本百名城No.73)、7.熊本城(日本百名城No.92)、8.首里城(日本百名城No.100)、9.丸岡城(日本百名城No.36)、10.宇和島城(日本百名城No.83)、11.高知城(日本百名城No.84)、12.犬山城(日本百名城No.43)、13.金沢城(日本百名城No.35)、14.和歌山城(日本百名城No.62)、15.松江城(日本百名城No.64)、16.松山城(日本百名城No.81)、17.松本城(日本百名城No.29)、18.大垣城(続日本百名城No.144)、19.弘前城(日本百名城No.4)20.二条城(日本百名城No.53)、21.備中松山城(日本百名城No.68)、22.松前城、23.丸亀城(日本百名城No.78)、24.高松城(日本百名城No.77)の24城である。

 

4.太平洋戦争による消失

城の衰退の第三期の波は、敗戦ムードが濃厚となった昭和20年(1945年)になって一気にやって来る。それまでのアメリカ軍は、日本本土に対する空襲を軍事拠点に限っていたが、無条件降伏を一気に促すため、焼夷弾による無差別爆撃に方針を切り替えた*9。沖縄戦での首里城の焼失(5月)と合わせ、名古屋城(5月)、岡山城(6月)、大垣城(7月)、和歌山城(7月)、仙台城(7月)、水戸城(8月)、福山城(8月)を空襲によって相次いで焼失し、そして原爆攻撃によって広島城の天守が倒壊した(8月)。実に戦災によって9城を失ったことになる。

「歴史にifはない」ことは重々承知している。ただ、もしもっと早く戦争が終わっていれば、無差別爆撃による犠牲者は少なくて済んだであろうし、城を失うこともなかったはずである。残念でならない。

*9 カーチス・ルメイ。太平洋戦争を語るうえで忘れてはならない名前であるように思う。1945年1月にアメリカ軍の航空部隊司令官になると、3月10日の東京大空襲を指揮するとともに、その後も大阪、名古屋等の大都市や地方都市への無差別爆撃を続けた。広島への原爆投下を行った部隊の指揮官でもあった。

1964年12月、戦後日本の航空自衛隊育成に協力があったことを理由にして、日本政府はルメイに対して勲一等旭日大綬章を授与している。恥ずかしながら、最近になって知ったことである。

 

Vol.2でも触れたとおり、昭和30年代になって鉄筋コンクリート造の天守建築が行われるようになったが、特に戦災によって旧国宝天守を失った地方では、敗戦後の日本復興の象徴として一日も早く天守を再建したいという、強いメンタリティーがあったように思われる。

👉 Vol.4 日本100名城

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です