隠し湯めぐりその2 (Vol.39)

隠し湯めぐりシリーズの第2弾として訪れたのは、「川浦温泉 山縣館」です。「信玄の隠し湯」としては、まさにキング・オブ・キングと言ってもよい場所。「中道往還」を歩いた身体の疲れを十分に癒すことができた、名湯でした。

1.「川浦温泉」の歴史

「川浦温泉」の歴史は非常に古い。今から遡ること500余年前の永禄4(1561)年、武田信玄が「川浦の湯を整備せよ」と命じたことに始まるそうだ。この信玄の書状自体は、甲州市塩山にある臨済宗乾徳山「恵林寺」の宝物館に所蔵されている。「恵林寺」は、信玄が菩提寺と定めたところであり、織田信長の甲斐攻めの際には焼き討ちに遭っている。信玄も敬愛していた快川(かいせん)和尚が「心頭滅却すれば火もまた涼し」という言葉を残し、百人以上と言われている僧侶とともに火炎に包まれた、というエピソードはあまりにも有名である。

今回、宿泊先に選んだ「川浦温泉 山県館」は、武田信玄を支えた武田二十四将の一人「山県三郎右兵衛尉昌景(やまがたさぶろう うびょうのえじょう まさかげ)」の末裔の方が経営する旅館である。武田信玄が戦国最強の武将と称される理由の一つとして、智将・勇将の揃う家臣団が構成されていたことが挙げられるが、その中でも「山県昌景」は後に「武田四天王」の一人にも数えられる最強の将である。筆者は、昭和63(1988)年放送の大河ドラマ『武田信玄』を毎週欠かさず見ていたファンの一人であるが、武田信玄役の中井 貴一さん、山本勘助役の西田 敏行さん、板垣信方役の菅原 文太さん、上杉謙信役の柴田 恭平さんなど、そうそうたるメンバーが揃う中、特に好きだったのが「山県昌景」役の篠田 三郎さんであった。以来、名将「山県昌景」=篠田 三郎さんのような人というイメージが、すっかり自分の中で出来上がっている。

「川浦温泉 山県館」の創業は安政4(1857)年。現在の女将である山縣 義行さんは、第15代目の当主となる齢90歳を越えながらもなお、若女将である山縣 祐子さんとともに旅館を切り盛りされておられるようだ。篠田 三郎さんによく似た「山県昌景」の末裔の方が今も大切に守り続ける老舗旅館。「隠し湯めぐりその1」(👉Vol.27)でも触れたとおり、筆者にとっては積年の宿題となっていた場所である。

 

2.「赤備え」は最強のしるし

「山県昌景」の武勇を語る上で挙げられるのが、「赤備え」であろう「赤備え」とは、軍団構成員が使用する甲冑や旗指物などの武具を全て赤や朱の色彩で統一した編成のことをいう。敵と味方が入り乱れる合戦場において、赤一色で揃えられた「赤備え」の部隊がひときわ強い存在感を放つことは言うまでもなく、いつしか「赤備え」=「最強部隊」と称されるようになっていく。「赤備え」を最初に始めたのは、武田二十四将の一人である飯富虎昌(おぶ とらまさ)と言われているが、虎昌は、「義信事件」(武田信玄の長男・嫡男であった武田義信と信玄が駿河侵攻をめぐって激しく親子間で対立、信玄によって義信が幽閉された事件)を契機として謀反の疑いをかけられ、永禄8(1565)年に自害をしている。その後、家督を継いだのが弟の「山県昌景」であり、「赤備え」の軍団も「昌景」が率いることになった。以来「武田の赤備え」は、武田軍の最精鋭部隊(武田軍を象徴する部隊)へとなっていく

武田信玄は、将軍足利義昭の信長討伐令の呼びかけに応じる形で人生最後の大勝負、「西上作戦」に打って出る。元亀3(1572)年10月、大軍勢を率いて甲府を進発した。徳川家康の領地である遠江国・三河国へ同時に攻め入り、次々と支城を攻略していく元亀3(1572 )年12月には、かの有名な「三方ヶ原の戦い」において、徳川家康を完膚なきまでに叩きのめしているこの時、家康をあと一歩のところまで追い詰めたのが、「昌景」率いる「武田の赤備え」軍団であった

信玄の死後、武田勝頼がその後を継ぐ。信玄の果たせなかった遠江・三河の攻略にはやる勝頼を諫める立場になったということもあり、勝頼と「山県昌景」の関係はあまり良くはなかったようだ。偉大な父を持った「二代目」はとかく功名心にはやりがち、と言ってしまえばそれまでであるが、勝頼のことについてはまた後日改めて考察をしてみたい(👉Vol.41)。天正3(1575)年7月、三河国の長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田・徳川連合軍3万8,000人と武田軍1万5,000人とが「設楽ヶ原(したらがはら)」において対峙する。重臣である「山県昌景」や馬場信春、内藤昌秀らは、双方の兵力差と信長自らの出陣であったことを踏まえ、武田勝頼に対し撤退を進言したが、勝頼はこれを聞き入れなかった。大河ドラマ『豊臣兄弟』では残念ながらこの場面は完全にスルーされてしまったが(笑)、世にいう「長篠の戦い」によって、「山県昌景」や馬場信春ら名だたる武田の武将たちが数多く討ち死にをすることになる「設楽原」に築かれた馬防柵から、織田軍鉄砲隊が入れ代わり立ち代わりで武田騎馬軍に対し情け容赦ない攻撃をしかける。映画やドラマでも有名なシーンである。「山県昌景」、享年47歳であった。

この戦いの後、織田・徳川連合軍は天正10(1582)年2月、武田家を滅亡させた。その際に「中道往還」を利用したことは、既に触れたとおりである(👉Vol.38)。しかしその3か月後には、信長が「本能寺の変」で討たれたため、結果的に甲斐国を手に入れたのは徳川家康となった。武田軍団がどれほど強かったかを身をもって知っている家康は、旧武田家家臣を積極的に召し抱え、「山県昌景」の家臣を“徳川四天王”の一人である「井伊直政」に与えた。「武田の赤備え」は「井伊の赤備え」として引き継がれ、見事に復活したというわけである。その後、井伊直政は「赤備え」を率いて各戦場で大暴れしたため、その戦いぶりから“井伊の赤鬼”と恐れられた。

2024(平成6)年7月26日~8月28日まで「彦根城博物館」で展示された「井伊の赤備え」

筆者がもう一人、「赤備え」で印象に残っている武将が「真田幸村(信繫)」である。平成28(2016)年1月から放映された大河ドラマ『真田丸』を熱心に見ていた筆者としては、慶長19(1614)年11月から始まった「大坂冬の陣」において、堺 雅人さん演じる「真田幸村」が「赤備え」を率いて、出城として築いた「真田丸」において徳川軍を撃退するシーンが今でも目に焼き付いている。自分をかつて苦しめた「赤備え」を見れば、徳川家康も嫌がることだろう。「真田幸村」がそう考えたとしてもおかしくない。「武田の赤備え」から「井伊の赤備え」へ、そして「真田の赤備え」。「赤」は戦場でひときわ「映える」し、俗な言い方にはなるが、何より「かっこいい」のである。

真田丸 完結編 (NHK大河ドラマ・ストーリー) | 三谷 幸喜, NHK ...

 

3.いざ入湯!!

前置きがだいぶ長くなってしまったが、それでは「山県館」の湯に入ることにしよう。歴史の古い温泉旅館ということもあり、館内のあちこちには、その歴史を物語る興味深い写真が展示されている。

 

宿泊初日に入ったのが「せせらぎの湯」である。温泉に関する案内を読み進めていくと、湯量が大変豊富であることがよくわかる。アルカリ性単純泉は、実に肌に心地よいものだ。「露天風呂 美肌の湯」は、温度がかなり低めであったため、おじさん3人でおしゃべりをしながら、1時間近く入湯していたであろうか。全く湯あたりすることはなかった。ホームページによると、なんでも「山県館」は株式会社ポーラから「美肌温泉」としての認証を受けているとか。3人揃って、お肌がツルツルになったことは言うまでもない(笑)。「中道往還」の旅の疲れも、どこかに吹っ飛んでしまった。

翌朝は、「薬師之湯」に入湯した。同じくアルカリ性単純泉。日本庭園に面した岩風呂風の露天風呂は実に風情があり、打たせ湯も気持ちが良かった。出立時間が少し早かったため、残念ながら昨日のような長時間入浴は叶わなかったが、「何もせず、ただボーっと浸かっていたい」と思わせる、そんなお湯加減であった。かの武田信玄がこの地に温泉を整備せよと命じたのも、すごぶる納得である。

温泉旅館の楽しみの一つである「お料理」も、山国ならではの料理があったり、山梨県お約束のマグロ(👉Vol.38)があったりなど、一品一品手が込んでおり、心遣いが感じられるものばかりであった。「中道往還」のことを思い出し、つい勢いで、「アワビの煮貝」を追加注文してしまった自分がいる(苦笑)。お世話いただいたスタッフの方々の対応も、実に気持ちが良かった。お湯良し、料理良し、ホスピタリティ良しの由緒ある老舗温泉旅館。JR塩山駅までの無料送迎バスも用意されているので、「信玄の隠し湯」めぐりとして、是非皆さんも一度訪れてみてはいかがだろうか。

👉Vol.40 城下町を歩く ~鞆の浦編~ 

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