武田勝頼の最後 (Vol.41)

「武田 勝頼」は、戦国最強の武将とも称される「武田信玄」の言わずと知れた後継者です。信玄の死後、領土拡大を目指して積極的に外征を行い、一時期は、信玄の頃よりもその支配地を拡大させたとも言われています。その勝頼が晩年、韮崎に築城した「新府城(しんぷじょう)」を訪れ、武田氏滅亡の歴史に触れました。

1.勝頼は“愚将”であったのか

「中道往還」の旅(👉Vol.38)のフィナーレを飾るのが、山梨県韮崎市に「武田 勝頼」が晩年築城した「新府城」を訪ねることであった。最寄り駅は、JR中央本線の新府駅(無人駅)。そこから徒歩で15分程度の場所にある。決してアクセスが良いとは言えないが、今回一緒に旅に出かけた二人の友人に頭を下げ、付き合ってもらうことにした。

「武田 勝頼」と聞いて、皆さんはどのような印象を持たれるであろうか。ドラマや映画の世界で描かれる「勝頼」像は、決まって“愚将”であると言ってよいであろう。①カリスマ性の欠如。偉大な父から家督を譲り受けたが、信玄のようなカリスマ性がなかったため、強力な家臣団を統率することができなかった。②武田騎馬隊の力の過信。信長・家康連合軍に対して旧式な戦法で戦いを挑んだことによって、天正3(1575)年の「長篠の戦い」では惨敗を喫した。③外交政策の失敗。上杉 謙信の死後、家督争いをしていた「上杉 景勝」と同盟を結んだことによって、北条氏との関係に決定的な亀裂が入り、信長・家康につけいるスキを与えてしまった等々。こうしたネガティブな評価は、これまでの通説でもさんざん言われてきたところである。「偉大な父を越えようとして、無理に無理を重ねた結果、自滅をしてしまった愚か者」。その昔、作家新田 次郎氏の小説『武田勝頼』や『武田三代』を読み漁った筆者としても、やはり「勝頼」のことを“愚将”の一人として決めつけていたところである(苦笑)。

武田  勝頼

 

2.勝頼に対する再評価

ところが、最近になって、歴史学者である平山 優(まさる)氏を中心に、「武田 勝頼」に貼られた“愚将”としてのレッテルを見直す動きが見られるようになった。平山氏の著作『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館〈敗者の日本史9〉、2014年)、『武田三代』(PHP研究所〈PHP新書〉、2021年)によれば、まず第一に長篠の戦いにおけるこれまでの通説、すなわち、「先進的な織田の鉄砲隊によって時代遅れの武田騎馬隊がなぎ倒された」という評価は誤りであって、当時の武田軍においても、織田方と遜色のない鉄砲隊が編成されていたことを指摘する最終的に勝敗を決したのは、圧倒的な兵力差(織田・徳川連合軍約3万8,000人に対して武田軍は約1万5,000人であったこと)と、鉄砲隊の装備力(火薬・鉄砲玉の物量)の差によるものであった、という冷静な分析を行っている。織田 信長が堺を掌握し、南蛮貿易や東アジア貿易の恩恵を直接受けることができたのに対して、内陸国甲斐・信濃において硝石や火薬、鉛を確保することがどれだけ困難な事業であったことか。この視点は、極めて示唆に富んだものであり、説得力があると感じる。

第二に平山氏は、勝頼が信玄の四男であり、本来であれば武田家を継ぐ正当な血筋でなかったことに注目をする。勝頼の母は、信玄の側室であり、信濃国の領主・諏訪 頼重の娘である諏訪御料人であった。嫡男である義信の非業の死、「西上作戦」の途中で信玄が病で倒れたことによって、結果的に勝頼は武田家の家督を継ぐことになったが、信玄に古くから仕えていた重臣たちが素直に新しいボスに対して“恭順の意”を示すであろうか。事柄の性質上、それが非常に難しいことは容易に想像がつく。

加えて勝頼は、信玄の長年にわたる領国拡大によって顕在化していた、“数々の構造的問題”も相続することになった。信玄が武田家の家督を相続したのは天文10(1541)年のこと。この時は甲斐一国の領主に過ぎなかったが、その後信玄は、積極的な領土拡大を信濃の地に求めた。越後の上杉 謙信と憂いなく戦うため、天文23(1554)年には、駿河の今川氏と相模の北条氏との間で「甲相駿三国同盟」を締結する。しかし、永禄3(1560)年、駿河の今川 義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討ち取られた後は、駿河との同盟を事実上破棄、永禄11(1568)年には駿河へ侵攻する。こうした動きは、地政学的に見ても明らかなとおり、必然的に織田 信長や徳川 家康との間の強い緊張関係を生み出すことになった。京を最終的に目指す「西上作戦」を開始したのは、元亀3(1570)年。その途上、信玄は53歳で息を引き取った。①甲斐、信濃、西上野、駿河、遠江・三河・東美濃まで及ぶ広大な領土を維持すること。②信玄が果たせなかった「西上作戦」を完遂すること。③日の出の勢いで躍進する織田 信長、そして徳川 家康と戦いを続けること。信玄の後継者として、勝頼が背負わされた荷物(遺産)は、あまりにも重かったということになろう。

天正2(1574)年から勝頼は積極的な外征に打って出る。旧重臣たちの信頼を勝ち取るためには、多少の無理をしてでも領土拡大に走らざるを得なかったという、勝頼側の“大人の事情”があったことを見逃してはならないであろう。特筆すべき点は、同年6月に遠江へ侵攻し、信玄も落とすことができなかった「高天神城」(現在の静岡県掛川市上土方嶺向)を攻略したことである。これによって勝頼の名声が一気に“爆上がり”したことは言うまでもない。信長が謙信に宛てた書状の中で、「四郎は若輩ながら信玄の掟を守り、表裏を得た油断ならぬ敵である」と述べている点は注目に値する。信長を本気にさせた武将ということになろうか。既に触れたとおり、天正3(1575)年の「長篠の戦い」では惨敗を喫することになるが、それ以後、勝頼が自刃する天正10(1582)年までの約7年間、織田・徳川連合軍の執拗な攻撃に耐え、何とか持ち堪えた手腕も、同様に見落としてはならないように思う。

勝頼は、戦には滅法強い、有能な武将であった。ただ、圧倒的な経済力と外交手腕に長けた信長に対しては、対抗する術がなかった。もし、武田家の名を後世に残そうとするなら、早期に信長と和睦する(その支配下に下る)以外、選択肢はなかった」。以上が、現時点における筆者の勝頼に対する再評価ということになる。

 

3.いざ「新府城」へ

勝頼自身、信玄の後を継いでからもなお「躑躅ヶ先館」(現在の武田神社)を本拠地としていたが、織田・徳川連合軍による包囲網が迫り来ることを意識したからであろうか、天正8(1580)年になって、突然「新府城」の築城を宣言した。甲府から韮崎への引っ越しということになるが、そこには勝頼の地政学的な思惑があったようだ。韮崎から勝頼の出身地である諏訪までの距離は近い。諏訪からは、伊那地方を経由して遠江や三河を視野に入れることができるし、東に進めば佐久地方に簡単に出られる上に、西上野方面へのアクセスが良い。また韮崎を流れる富士川を辿っていけば、駿府にも繋がる。守りを固める上では、甲府よりもはるかに適した場所であったと考えられる。

「新府城」は、写真のとおり、「七里岩(しちりいわ)」と呼ばれる台地の上に築城されている城の西側は、比高差90メートル程の断崖となっており、西からの攻撃を一切シャットアウトできる防御の強さを備えている。「想定復元図」と照らし合わせてみると、城全体の造りがよくわかる。北と東には巨大な堀があって敵の侵入を防ぐ構造になっているとともに、大手にあたる南側には丸馬出と三日月堀があり、防御を集中することによって城の堅固さが保たれている。天守や石垣のない「土の城」ではあるものの、そこには武田家が長年にわたって培ってきた築城技術が集約されている。「新府城」は、いわば武田流築城技術の完成形と言える城である。

新府城跡/韮崎市

当日は、韮崎駅からタクシーに乗車、「続日本100名城」のスタンプ設置場所である「韮崎市民俗資料館」に立ち寄ったうえで、「新府城」を目指す。お話し好きの運転手さんで、韮崎には今をときめく「東京エレクトロン」の事業所がある、その昔、中田ヒデが韮崎高校サッカー部のキャプテンだったという話で盛り上がっていたら、あっという間に目的地に到着。運転手さんが降ろしてくれた場所は、「新府城」の鎮守である本丸の「藤武神社」を目指す参道の入口であった。恐らく、最短・直登で行けるからという親切心であったと思われるが、目の前にある約250段の石段を見て、おじさん三人組の気持ちはすっかり萎えてしまった(苦笑)。体力を削ったおかげで、確かに短時間で本丸にたどり着くことができたものの、反面、却って城全体の構造がイメージしにくくなってしまったのかもしれない。なお、本丸には、「武田二十四将」の墓碑、「武田 勝頼」公の霊舎などが建てられている。

堀や土塁、井戸など、城内に見どころはそれなりにあるはずなのだが、東西南北を含め、どこを目指して歩けていけばよいかがよくわからず、その後も周囲をウロウロする。最終的には、防御の要となる桝形虎口、丸馬出と三日月堀がある、南側の大手を目指す。案内図とその実物をようやく発見。うん、これだよ、これ!! 思わず叫んでしまった。友人二人に協力をしてもらいながら、丸馬出や桝形虎口の遠近感、奥行きを表現する写真を撮影してみたが、果たして上手く伝わっているだろうか(笑)。

残念ながら、今回の城めぐりでは、武田流築城術を十分に味わい尽くすところまでは到達できなかったように思う。己の未熟さを反省するばかりであるが、城の南側の大手から見学を始めた方が、「新府城」の全体像が掴みやすいのかもしれない。

 

4.勝頼の最後

城自体はまだ未完成であったが、天正9(1581)年の年末には、勝頼は躑躅ヶ崎館から本拠地を「新府城」に移している。しかしながら、天正10(1582)年2月、武田方の武将木曽 義昌が織田方に寝返ったことが決定打となり、織田・徳川連合軍による甲州征伐が一気呵成に進められることになった。この頃には、武田家の家臣が続々と織田方に寝返っていったため、勝頼は家臣小山田 信茂の「岩殿城」に移るため、同年3月には未完の「新府城」に火をかけ、廃城にした。

その後、「岩殿城」に向かう途中の笹子峠において、小山田 信茂の謀反・裏切りにあい、天目山に追い詰められた武田家一族は自害をし、滅亡した。勝頼、享年37歳。「新府城」は、入城後わずか68日で焼失。何とも儚いものである。「新府城」は、武田家終焉というドラマの最後の舞台であったと言えるのかもしれない。

👉Vol.42 「福江(フクエ)の話(その1)」

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