中道往還(なかみちおうかん)の話 (Vol.38)

「中道往還(なかみちおうかん)」という古道をご存知でしょうか。甲斐の国と駿河の国とを結ぶ最短ルートとして古くから利用されてきた街道で、武田信玄、徳川家康、織田信長などがこの道を歩いたことでも有名です。桜満開の季節に、「熊野古道」を歩いた3人組で「中道往還」を訪れてみました。

1.「中道往還」の歴史

「中道往還(なかみちおうかん)」は、山梨県甲府市と静岡県富士市の田子の浦港とを結ぶ古道である。甲斐の国と駿河の国を結ぶ最短ルートとして、古くから利用されてきた。全長にして約20里(およそ78キロメートル)甲府右左口(うばくち)宿右左口峠(迦葉(かしょう)坂)⇒阿難(あなん)峠(女坂)精進(湖)本栖(湖)大宮宿(富士宮市大宮町)⇒吉原湊(田子の浦港)というルートを辿る。なぜ「中道(なかみち)」と呼ばれるかというと、元々駿河の国と甲斐の国との間には、東に「駿州往還(河内路)」、西に「若彦路」という街道があり、「中道往還」はその真ん中に位置するためと言われている。

戦国時代における「中道往還」の役割は、軍用道路であった。かつて武田信玄が駿河の国へ侵攻した際には、この「中道往還」を利用したものと考えられる。また、信玄の死後、武田勝頼の代になってからは、徳川家康・織田信長連合軍が武田家を滅亡させるためにこの道をひた進んだ。「中道往還」と特に深い関わりを持った武将は、徳川家康であろう。司馬遼太郎の小説『覇王の家』には、未だ富士山を見たことのない織田信長をもてなすために腐心した徳川家康の奮闘ぶりを表わす、以下のような件(くだり)がある。

「甲府から姥口(うばくち)までの道路はところどころあぜ道のようにせまい。家康は、そこを道普請してひろげていた。さらに沿道の警護には徳川武士が人垣をつくって勤めた。姥口における信長の宿館も、急造ながら御殿風につくっておいた」。小説によれば、この家康の献身的なもてなしに、信長もご満悦であったとか。なお、左右口の領民たちの懸命な働きぶりに対し、家康は、関所の通行や海産物の売買・運送を免税する「朱印状」を与えた。これによって左右口宿が大いににぎわったことは言うまでもない。感謝をした領民たちによってこの地で始められたのが、「御朱印祭り」である。そこでは、人形浄瑠璃が演じられるようになった。

江戸時代に入ると、軍用道路としての役割は低くなり、「中道往還」は「魚の道」へと変わっていく。記録によると、駿河湾で早朝獲れた魚が吉原の荷受け問屋へ運ばれ、それを甲府の馬方が待っていて、午後4時には吉原を出発。夜通し峠道を歩いて、右左口辺りで夜明けを迎え、朝の7時頃には甲府の問屋へ到着していたそうだ。阿難峠や右左口峠という難所があるだけに、「熊野古道」歩き(👉Vol.35)でギブアップした筆者としては、にわかに信じることはできないが(苦笑)、昔からこうした「魚の道」のルートが確保されていたことによって、後述するように、甲府・山梨県の人々の食生活に対し大きなインパクトを与えることになる。

明治維新を迎え、甲府駅と富士駅とを結ぶ鉄道が敷かれた。私鉄の「富士美延鉄道」である。運賃が高かったこともあって、沿線住民から国有化を求める声が上がり、昭和16(1941)年には国有化された。これが現在のJR身延線へと引き継がれていく。鉄道の開通によって、「中道往還」は「魚の道」としての役割を文字通り終えたことになる。さらに戦後、甲府と精進湖との間に有料道路(甲府精進湖有料道路)が完成したことによって、かつての峠道を歩く人たちの姿も途絶え、街道自体が朽ち果てていくことになった。

 

2.山梨の人たちはみんな魚好き!?

今でこそ全国各地に新鮮な魚が流通するようになったが、話が江戸時代となると、そうも簡単にはいかない。夏であっても、生魚を腐らせることなく運べる限界点までの距離を、「魚尻線(うおじりせん)」というそうだ。そう、「魚の道」によって駿河から甲府まで魚が運ばれる距離は、まさにこの「魚尻線」(限界点)だったというわけである。こうして、甲府の人たちは駿河で水揚げされた「マグロ」を昔から食することができた。山梨県民には江戸時代の頃から「マグロはごちそう」というイメージが刷り込まれており、今でも「刺身」と言えば「マグロ」、ハレの日にはごちそうとして「マグロ」が食卓に上がるそうだ。山梨県は“海なし県”であるにもかかわらず、全国屈指の「マグロ」消費量(筆者が検索した統計によると、2024年度で全国4位)を誇り、また、人口10万人あたりの寿司店数は全国1位となっている。

街道を使って魚を運ぶという風習は甲府名物としても有名な「あわびの煮貝」にも繋がっていく。甲府の老舗魚問屋の当主が、甲州人にもなんとか美味しいあわびを食べてほしいと加工法を開発、沖で獲れたあわびを醬油で煮込み、樽に詰めて甲府まで馬の背に乗せゆっさゆっさと運んだら、ちょうどよい味加減になったそうだ。その伝統は今もしっかりと受け継がれ、値段はそれなりにするが、間違いのない(外さない)甲府土産の一品となっている。

 

3.「幻の石畳」の復活劇

筆者が「中道往還」に興味を持ったきっかけは、ある新聞記事を見つけたことである。山中で土砂に埋もれていた古道の石畳の一部を、地元住民が手作業で8年かかって掘り出した。その古道は、かつて武田信玄、織田信長、徳川家康も歩いたことがある場所。、こんな内容の記事を見つけたら、そりゃー“城好き”は食いつくに決まっているでしょう(笑)。

江戸時代に賑わった左右口宿には、宿場町の面影を残す古い街並み、徳川家康が滞在した「敬泉寺」、浄瑠璃人形が保存されていた「宝蔵倉」など、名所・旧跡が残されているこうした文化財や伝統を守る活動を行っているのが、「左右口宿歴史文化推進会」である。登山道や「観音堂」の整備、お盆に向けての提灯の飾りつけなどといった地道な活動を行っている(推進会」のブログ参照)。そのメンバーの一人が偶然、迦葉(かしょう)坂において土の中に埋もれた石畳の石のようなもの見つけたことから、復活劇が始まる。地元で生まれ育った渡辺 勝明さんは、「どこまで続いているか見てみたい」という思いを強く抱く。重機が入れない急斜面につるはしとスコップ、一輪車などを持ち込み、仕事の合間を縫ってほとんど独力で発掘作業を続けた(2020(令和2)年11月7日の「推進会」のブログを見ると、その作業の様子がよくわかる)。実に足かけ8年に及ぶ歳月を経て、2025(令和7)年9月、全長40メートル、幅1.8メートルにわたる整然とした石畳が見事に復元された

「中道往還」の歴史を学ぶにつれ、復活した「幻の石畳」を実際にこの目で見てみたいという強い衝動にかられた。よし、ここはひとつ、「熊野古道」歩きのメンバーに相談をしてみるか。筆者は実に運がいい。旅行好きの奇特な友人と関西在住のスポーツマンの友人は、この企画にすぐ賛同してくれた。

 

4.「中道往還」を歩く

2026(令和8)年3月末、桜満開の季節に、旅は始まる。新宿から甲府までは特急あずさに乗り、甲府駅で身延線に乗り換え、南甲府駅で下車、「上九一色・中道地区コミュニティバス」に乗車する。一日に4本のバスが走行するこの路線は、地元の方々にとっては買い物や通院などに利用する貴重な足となる。見慣れないおっさん3人組が座席を陣取ってしまったため、途中から乗車された方々には大変ご迷惑をおかけしてしまった。本当にごめんなさい。

「左右口」のバス停で下車。そこから、ゆっくりと歩き始める。間口はさほど広くないが、奥行きが長い作りになっている建物が左右に並んでいる。宿場町の風情が感じられる風景だ。舗装道路になっているので、歩きやすい。しばらく進むと、徳川家康が滞在した「敬泉寺」浄瑠璃人形が保存されていた「宝蔵倉」などの名所・旧跡群にたどり着く。今でも住民たちにとってのモニュメントである「観音堂」へと続く道は、まさに桜が満開。まるで別世界にいるかのような感じだった。途中、「魚の道」にふさわしい歌碑を見つけた。嬉しい発見である。

奥に見える赤い建物が「観音堂」

「観音堂」の屋根には、徳川葵の御門が!

舗装道路が終わり、いわゆる「旧道」へと入っていく。次第に道は狭くなり、藪が左右に生い茂るようになった。明らかに先ほどとは周りの様相が変わってくる。昔、川が流れていたような跡を道だと勘違いし、沢の方向へ誤って進んでしまった。完全に道をロスト。どこが「旧道」入口なのか、案内もなかったため、3人でしばらく立ち往生することに。藪をかき分け、道ではないかと思う方向へ恐る恐る進んでいくと、ブログで見たことのある中道南小の生徒さんの手作り看板を発見。良かったあ~、合っている。登山道かどうかもはっきりとしないような細い道、勾配のきつい坂道がしばらく続き、途中、倒木をよけたりしながら、プチ展望台へ到着。その見晴らしは、道中の疲れを癒す、素晴らしいものであった。国道358号線の左右口トンネルに出るまでの「旧道」歩きは、やや難易度が高いかもしれない。

おーい、道はどこだー?

「中道ふるさとかるた」の句碑までたどり着くと、ようやく一安心だ。右左口トンネルの入口付近に出る。「中道往還」の案内看板を発見。さあ、ラストスパートだ。さらに、山道を登っていくと…、前方に石畳らしきものが見えてくる。最近になって「推進会」の皆さんによって立てられた「中道往還」の看板がはっきりと見て取れる。渡辺さんは、この石畳をほぼ独力で発掘したのか。素晴らしい!! エピソードを知れば、間違いなく感動物である。

あの新聞記事を見つけなければ、筆者は恐らく「中道往還」そのものを永遠に知ることはなかったであろう。かつての江戸時代のような賑わいとまではいかないにせよ、一人でも多くの人たちに「中道往還」にある「幻の石畳」の存在を知っていただき、現地へ出かけていただきたいものだ。実際にそこを歩いてみるだけの、必見の価値がある。それだけの大事業であったと思う。

👉Vol.39 「隠し湯めぐり その2」

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