熊野古道(クマノコドウ)の話 その2(Vol.35)

「熊野古道小辺路(こへち)」歩きの日は、あいにくの雨模様。雨に濡れた石畳は思いのほか滑り、難行苦行の連続でした。しかし、その苦労の果てにこそ得られるものがある。昔の人たちがこぞって“熊野詣”をした理由が、今回の経験でわかったような気がします。

1.あいにくのお天気

「熊野古道小辺路」歩きの朝を迎えた。朝から結構な雨降り、しかも予報では午後になってもやみそうもない。なんてこった! 三人の中に必ず“雨男”がいるはずだ。思い当たるメンバーが一人いるが、本人は頑なに否定しそうだから、深追いするのはよそう(笑)。筆者は、急に心細くなってきた。そもそも今回の峠越えにあたって、登山靴やトレッキングシューズの類いを用意していない。通勤時に用いているスニーカーのままだ。リュックサックもビジネス用のもので、雨具も特に用意してきていない。準備不足も甚だしい。果たして大丈夫だろうか。

「ホテル昴」から遠く果無(はてなし)峠を臨む

旅好きの奇特な友人は、今回の峠越えにあたって、事前にガイド役の方を手配してくれた。果無集落に在住されている岡 修一さんという方である。後でわかったことであるが、この方は熊野古道歩きのガイドさんとしてはかなり著名な方で、マスコミにもしばしば登場されている。元々は役場勤めをされておられて、定年退職後に山岳ガイドの資格を取り、「熊野古道小辺路」の語り部になられたとのこと。年齢は70歳ということだったが、颯爽とされたお姿からはとてもそんな年齢には見えない。不安は感じつつも、このガイドさんについていけば何とかなるか。覚悟を決めて出発した。

 

2.「熊野」は特別な場所

「八咫烏(やたがらす)」の伝説でも触れたとおり(👉Vol.34)、「熊野」という土地柄は神話との繋がりが深く、皇族にとっても特別な場所であったと言える。なぜだろうか。仏教が伝来する以前の日本では、「八百万(やおよろず)の神々」に象徴されるように、動物、植物、樹木、滝、岩、月などすべての自然物に霊魂が宿っていると考える、「アニミズム」信仰が盛んに行われていた。また、そもそも古代における庶民の間の埋葬では、墓を造る習慣というものがなく、「風葬」(遺体を野山に安置して、自然に還すこと)が一般的に行われていた。このため、風化した死屍を清掃する烏が不浄を清める存在として神聖視され、神の使いである「霊鳥」と見なされるようになった。「熊野」という土地には古墳がほとんど存在していないため、特に「風葬」の習慣が根強かったことになる。さらに、「くまの」という言葉の語源自体が、冥土の古語である「くまで」「くまじ」から転訛したものであるとも言われている。そう、古代から「熊野」という土地は、死者の霊魂が集まる「死者の国」であったと考えられていたのである。「八咫烏」の伝説がこの地で生まれたのも、至極当然のことであろう。

「熊野三山」とは、「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」のことである。「熊野本宮大社」の主祭神は「家都美御子大神(けつみこのおおかみ)」=「素戔嗚尊(すさのうのみこと)」、「熊野速玉大社」の主祭神は「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)」=「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」、「熊野那智大社」の主祭神は「熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)」=「伊邪那美命(いざなみのみこと)」である。神話の世界によれば、「伊邪那岐命」と「伊邪那美命」はいわずと知れた“国生みの神”であり、「伊邪那美命」は火の神を生んだことによって死んでしまい、黄泉の国へ行っている。「伊邪那美命」が「熊野」に祀られていることからしても、この場所が「死者の国」としての聖域であったと考えてよいであろう。

 

3.「神仏習合」と「本地垂迹」

わが国に仏教が伝わった頃(6世紀)には、既に各所で神様への信仰(神道)が深く根付いていた。この時に生まれたのが、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」という日本独特の宗教観・考え方であるお互いに排斥しあうのではなく、両者を融合することによって、信仰や儀式を相互に取り入れ合うというもので、時の為政者たちも、この考え方を拠り所として新しく伝わった仏教を広めようとした。724年に即位した聖武天皇は、仏教に深く帰依し、仏の力で国を守護する政策を進めたことで有名であるが、その集大成の事業が東大寺の大仏造立であった。事業が思うように進まない中で、八幡大神は「全国の神を率いて協力する」という内容の託宣を出した、というエピソードが残されている。まさに「神仏習合」を象徴する出来事と言ってよいであろう。こうして奈良時代には、神道の神々と仏教の仏が同じ場所で祀られたり、同じ儀式が行われたりするようになっていった。

時代が平安の世になると、全盛を誇った藤原氏による「摂関政治」が次第に衰え、「院政政治」へと変わっていくが、当時の社会不安と、災害や疫病が頻発したことを背景として、人々の間には「釈迦の教えが衰退し、世の中が乱れる時代(末法)に入った」という、いわゆる「末法思想」が広がっていく。末法の世では、自力で悟りを開くことが困難とされたため、人々は現世での救済を諦め、死後に「阿弥陀如来」の力(他力本願)によって極楽浄土に往生することを願うようになった。

さらに、この当時になると、「神仏習合」を理論的な面からサポートするものとして、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という考え方が出てくる。日本の神々(垂迹神)は、人々を救うために仏や菩薩(本地仏)が仮の姿で現れたものである、という考え方である。いかにも“ご都合主義”的に感じられるが(苦笑)、この「本地垂迹」説が先に述べた「末法思想」と結びつくことによって、前記2の「熊野三山」の各主祭神に対しても、それぞれ「本地仏」が宛がわれることになる。すなわち、「熊野本宮大社」の「家都美御子大神」⇒阿弥陀如来(来世救済・極楽浄土の約束)、「熊野速玉大社」の「熊野速玉大神」⇒薬師如来(過去の世の罪消滅、現世での病気平癒)、「熊野那智大社」の「熊野夫須美大神」⇒千手観音(現世利益、縁結び)である。これによって、「死者の国」であった「熊野」の地は、「過去の罪を浄め(速玉)、現世の願いを叶え(那智)、来世の救済を約束する(本宮)」、極楽浄土の聖地へと変わっていったのである。特に、阿弥陀如来による救済は当時としては絶大なものがあり、難行苦行の連続であったにもかかわらず、白河上皇や後鳥羽上皇は数十回にわたって「熊野御幸」を行ったと伝えられている。

その後も聖地「熊野」の人気が衰えることはなかった。神仏一体となった「熊野権現」は貴賤、男女、淨不浄を問わず、誰でも受け入れる「寛容性」があったため、人々はこぞって「熊野詣」へ出かける。熊野三山へ参拝する人々が蟻の行列のように途切れることなく続いた様子は、俗に蟻の熊野詣と言われている。伊勢へ七度、熊野へ三度という諺もある。ちなみに、那智勝浦では、平安時代の衣装を身に着けて熊野古道を散策する体験ツアーがある。

 

4.「小辺路」を行く

前置きが少し長くなった。「熊野古道小辺路」を歩く者としては、最低限これくらいの予習はしておきたいと筆者は考えている(笑)。今回筆者が歩く「小辺路」は、5つある「熊野古道」の一つで、高野山と「熊野本宮」を最短距離で結ぶ約70キロの街道である。最もメジャーなものは、恐らく「中辺路(なかへち)」であろう。田辺から「熊野本宮」、新宮、那智に至る山岳路は、かつて皇族や貴族たちが繰り返した「熊野御幸」における、公式の参詣路であった。「熊野古道」初心者にとってお勧めのコースであるとのこと。一方「小辺路」は、距離が短いものの1,000メートル級の峠越えが幾つもある、中・上級者向けのコースということだ。

「田辺市熊野ツーリズムビューロー」ホームページから引用

今回のコースは、果無峠登山口から入り、果無集落・果無峠を越えて、ゴールの熊野本宮大社を目指すもの。歩行距離は14.6キロ歩行時間は6時間15分ほどである。

「熊野本宮観光協会」ホームページから引用

スポーツ好きの友人から雨具を借り、午前8時30分、「ホテル昴」を出発。まずはガイド岡さんが住んでおられる、海抜400メートルの「果無集落」を目指す。「果無集落」まではほとんどが急峻な登り。西国観音像を一つひとつ数えながら、ひたすら石畳の山道を歩く。ほどなく「果無集落」に到着。その眺望から「天空の里」とも呼ばれている。

次に標高800メートル強の「観音堂」を目指す。雨は一向に止む気配もなく、森林には霧がかかる。雨の石畳は本当に歩きにくい。しかし、上りはまだ全然マシであることに、後になって気づく。「観音堂」で昼食休憩をした後、さらに登り続け、ついに「果無峠」に到着。標高は1,000メートル強だ。疲労はそれなりにあったものの、まだ脚には余力が残っていた。

峠を越えると、「三十丁石」「七色分岐」を経て、「八木尾バス停」までは標高差にして900メートルぐらいをひたすら下っていく。雨に濡れた石畳、木の根っこや落ち葉、至る所にある凸凹。上り坂では気にならなかったものが、下り坂になると容赦なくスリップを引き起こす。足を取られ、思うように歩くことができなくなった。5~6回は尻餅をついたであろうか。危うく後頭部を強打しそうにもなった。友人からは、「靴のせいだよ」と容赦ないダメ出しが…。岡さんの提案で、スピードが全く上がらない筆者が先頭を歩くことになる。身体を横向きにしながら、一歩一歩慎重に階段を降りるようにして歩く。滑ることを極端に怖がって歩いたため、余計なところに力が入っていたのであろう。次第に股関節が悲鳴をあげ、一歩降りるごとに激痛が走るようになった。何とかして平らな道までは頑張ろうと、歯を食いしばって痛みに耐えながら歩く。まさに苦行であった。

ようやく地上に降りる。「八木尾バス停」までは普通の舗装道を歩いたが、悲鳴を上げた股関節の痛みは一向に引く気配がない。友人の勧めもあり、筆者はここでリタイアをすることにした。あ~、情けない。「熊野本宮大社」での再会を約束して、バスに乗車した。友人たちは、その後も「道の駅熊野古道ほんぐう」「三軒茶屋跡」を経て、優に1時間以上、「熊野本宮大社」まで歩いたことになる。その健脚ぶりには、ただただ脱帽するしかない。一足先に「熊野本宮大社」に着いた筆者は、参道階段を這うようにして昇り降りして、何とか参拝を済ませることができた。これで無事“極楽浄土”へ行けるだろうか(苦笑)。

「三軒茶屋跡」にある道標。「右かうや十九り半/左きみい寺三十一半」と刻まれている。友人が撮影してくれた。

苦行の果てにたどり着いた3日目の宿泊先は、和歌山県田辺市にある湯の峰温泉「あづまや」さんである。湯の峰温泉は開湯1800年、日本最古の湯と言われているそうだが、山間に広がる温泉地は情緒たっぷり。熊野詣の旅の途中で、古の人々がここで聖地での禊ぎと旅の疲れを癒したというのも、よくわかる気がする。ボロボロになった身体を癒すには、実にいいお湯であった。近くにある天然温泉の岩風呂「つぼ湯」は、参詣道の一部として世界遺産にも登録されている

4日目、筋肉痛が激しい下半身はボロボロの状態であったが、なぜか心はすがすがしい。「魂のよみがえり」が図れる場所、「熊野古道」。無念の途中リタイアにはなったが、ガイドの岡さん、友人たちに支えられたその旅は心に残るものとなった。機会に恵まれれば、是非別のルートにチャレンジしてみたい。そう、今度は万全の装備で(笑)。

👉Vol.36 「大和郡山城下町を歩く」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です