城下町を歩く ~小幡陣屋編~(Vol.33)

群馬県南西部に位置する甘楽町にはかつて「小幡藩(小幡陣屋)」がありました。2万石程度の小藩であったため、城持ち大名にはなれませんでしたが、この地をかの有名な「織田 信長」の末裔たちが8代にわたって治めていたことをご存知でしょうか。今回は、「小幡藩」城下町を散策してみました。

1.小幡藩の歴史

上野国小幡の地は、元々豪族小幡氏の本拠地であったが、本能寺の変(1582年)以降、「徳川 家康」がこの地を支配下に置いた。「家康」の関東入国以降は、その娘婿である「奥平 信昌」が領主となり、その後、水野家、永井家と領主交代があったが、元和元(1615)年、「織田 信長」の次男である「信雄(のぶかつ)」に、天下統一を果たした「家康」から大和国宇陀郡3万石と上野国2万石の所領が与えられた。宇陀には「信雄」自身が入り、小幡領は「信雄」の四男「信良(のぶよし)」が治めることとなった。それ以降、①「信良」⇒②「信昌(のぶまさ)」⇒③「信久(のぶひさ)」⇒④「信就(のぶなり)」⇒⑤「信右(のぶすけ)」⇒⑥「信富(のぶとみ)」⇒⑦「信邦(のぶくに)」と、織田家が七代(「信雄」を入れると八代)にわたって152年間、小幡藩を治めた

明和4(1767)年、織田家が出羽国高畠藩(現在の山形県東置賜郡高畠町)に転封した後は、奥平松平家が2万石で入り、幕末を迎える。

 

2.数奇な運命を辿る織田家そして織田信雄

本能寺の変によって、「信長」とその長男である「信忠」が討たれた後、織田家一族は実に数奇な運命を辿ることになる。「信長」はこの時点で既に家督を「信忠」に譲っていたので、もし「信忠」が本能寺の変で討ち果てていなかったら、恐らく織田家の運命は全く異なるものになっていたであろう。

次男「信雄」と三男「信孝(のぶたか)」は、当然のことながら織田家の跡目争いの当事者となる。天正10(1582)年6月27日の「清須会議」の場において、「信雄」と「信孝」は互いに自らが家督を継ぐ正当な権利者であると主張したが、最終的には「豊臣 秀吉」が擁立した「信忠」の息子である「秀信(三法師)」が後継者に決まった。「豊臣 秀吉」が「三法師」を抱きかかえながら勝ち誇った顔をする。映画やドラマなどにおいて必ず描かれる名場面である。

「清須会議」の後、「信雄」は尾張国を、「信孝」は美濃国をそれぞれ相続することになったが、「信孝」が「柴田 勝家」に接近をしたため、その対抗上、「信雄」は「秀吉」側に与することとなった。かの有名な天正11(1583)年4月の「賤ケ岳の合戦」によって「秀吉」は「勝家」を滅ぼしたが、「信雄」も「岐阜城」に籠る「信孝」を包囲してこれを追い詰め、最終的には自害へと追い込んだ。弟に手をかけたわけである。

しかしながら、「信雄」と「秀吉」の蜜月も長くは続かない。実質的に織田家の家督を承継した「信雄」であったが、日に日に勢力を伸ばす「秀吉」が「信雄」をないがしろにするようになったため、「信雄」は「家康」と同盟を結ぶ。「秀吉」vs「家康」の全面戦争となった天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」においては、「家康」とともに「秀吉」軍と戦うが、8か月間にわたる膠着状態に疲弊した「信雄」は、「家康」の許しを得ないままに「秀吉」と単独講和をしてしまう。このあたりの行動は、いかにも名家出身にありがちな、自尊心は高いが実力が伴わない“お坊ちゃん”気質の現われと言ってよいであろう。以後、「信雄」は天下人となった「秀吉」に臣従することとなったが、天正18(1590)年の「小田原征伐」後の論功行賞において、関八州を与えられた「家康」の旧領(駿遠三甲信5か国119万石)を「信雄」に与えるという「秀吉」の差配を固辞したため、その逆鱗に触れて改易され、最終的には出羽国秋田へ追放の身となった。おいおい、なぜ「家康」の行動を見習えなかったんだよと、思わず突っ込みを入れたくなる(笑)。その後、「家康」の取りなしによって秋田からの帰還を許され、「信雄」は「秀吉」の御噺衆として仕えた(大和国に1万7,000石の所領を与えられた)。

「秀吉」の死後、「信雄」の運命は再び転機を迎える。あろうことか、慶長5(1600)年の「関ケ原の戦い」においては、嫡男「秀雄(ひでかつ)」とともに西軍側に与する形となった。尾張一国を与えるという「石田 光成」の甘言にまんまと乗ってしまったようである。やはり“”お坊ちゃん”はどこまで行っても“お坊ちゃん”なのであろうか。その責めを受けて「信雄」は再び改易され、大阪城下において浪人生活を送ることになった。ちなみに、「関ケ原の戦い」では、「信長」の七男「信高」も西軍側についたため、所領を没収されたと言われている。

時はあたかも、豊臣方と徳川方との間で最終決戦を迎えるタイミング。大阪城内には名家出身の「信雄」を総大将に担ぎ上げようとする動きがあったが、今度ばかりは上手に立ち回って豊臣方との距離を置き、逆に大阪城内の動きを「家康」に通報する役割を果たしたその功あって、前記1のとおり、元和元(1615)年、「信雄」は「家康」から大和国宇陀郡3万石と上野国2万石の所領を与えられたというわけである

ふぅ~、「信雄」の辿った数奇な運命をまとめるのも決して楽な作業ではない(苦笑)。以上のような紆余曲折があったにせよ、織田家を最終的に大名家として存続させているのであるから、「信雄」を単なる“愚者”として決めつけるわけにはいかないであろう。ちなみに、七男「信高」の子孫は幕臣として登用され、「高家(朝廷関係の儀式典礼を司った役職)」旗本として明治維新まで存続しているが、フィギアスケーターの「織田 信成」氏は、その末裔であるとも言われている。

 

3.小幡の城下町を歩く

さあ、城下町小幡を散策してみよう。起点は、「道の駅甘楽」が良い。農産物・特産品、グルメが数多くあるだけでなく、変わり種としてはイタリア直輸入のワインやエキストラ・バージン・オリーブオイルなどが多数販売されている。甘楽町と姉妹都市の関係にあるイタリアのチェルタルド市から直輸入されているそうで、ここでしか買えない商品、掘り出し物が見つかるかもしれない。

「小幡」の交差点へ向かって真っすぐ進んでいくと、「ようこそ城下町小幡」の看板がまず目に飛び込んでくる。県道に沿うようにして「雄川堰(おがわせき)」と城下の古い街並みが南北に続いていく。筆者の出かけた時期がちょうど桜の季節だったので、なおさらだったのかもしれないが、非常に風情が感じれる景色である。

県道46号線を南に進むと、赤レンガ造りの「小幡町歴史民俗資料館が見えてくる。 ちょうどこのあたりが、「小幡陣屋」の大手門の位置になる。資料館の建物は、この地方の養蚕の最も盛んであった大正15(1926)年に組合製糸小幡組の繭倉庫として造られたもので、平成27(2015)年には、「日本遺産」に認定されている。その先の駐在所を右折すると、「武家屋敷と中小路」エリアへと入っていく。黒塀と石垣に囲まれたそのエリアからは、往時の城下町の風情がよく伝わってくる。今でも住まいとして使用されている武家屋敷「高橋家」では、江戸時代の様子が良く残っている屋敷と庭園を見学することができる。戦時の防衛のために造られたと言われている、「食い違い郭(くるわ)もなかなか面白い。そこでは、20~30cm程度の石を斜めに重ねながら最上段を30~50cm前後の大きな石で押さえる、「矢羽積(やばねつみ)」という積み方が採用されている

武家屋敷「高橋家」

「食い違い郭」

歴代城主の名前が描かれたのぼり旗を左に見ながらさらに進んでいくと、国指定史跡「楽山園に到着。「信雄」自身が築庭したと言われている「大名庭園」であり、2002(平成14)年から10年の歳月をかけて復元されたものである。かつてこの地に「小幡陣屋」があったということで、園内には土塁や堀跡などがきれいに整備されている。防御力の高さはそれ程求められていないにせよ、「陣屋」も大きな意味で「城」の仲間であることは間違いのないところである。

時間が許すようであれば、是非崇福寺(臨済宗)まで足を延ばしてみたい。そこには「織田氏七代の墓」(「信雄」⇒「信良(のぶよし)」⇒「信昌(のぶまさ)」⇒「信久(のぶひさ)」⇒「信就(のぶなり)」⇒「信右(のぶすけ)」⇒「信富(のぶとみ)」の墓)がある。

散策に疲れたら、「古民家カフェ 信州屋」で一休みするのが良い。地元酪農家の生乳から作ったアイスクリームや、甘楽はちみつのレモネード、農家の休憩のおやつだったみそ付き焼きおにぎり「おこじはん」など、甘楽ならではのものが味わえる。

古民家カフェ「信州屋」

半日もあれば、「小幡城下町」を十分に満喫することができる。かつて「織田家」末裔たちがここを治めていたと聞くと、不思議なもので、町全体に「品格」のようなものを感じてしまう(笑)。「道の駅甘楽」に足を運びがてら、一度訪れてみてはいかがだろうか。

👉 Vol.34 「熊野古道(クマノコドウ

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